チェンマイ日記2002暮

15日(日)  午前三時に起きたのでThinkPadに向かう。日記をつけ、この『作業記録』を書き始める。
 今回、大失敗をしてしまった。パスポートをバイク屋に預けたままなのだ。せっかくメーサイ(タイの北の外れ。国境)に来たのにぼくだけタチレク(ミャンマー)に入れない。とはいえ行ったら間違いなく一万バーツぐらいは買い物をしてしまうので、初めてのケチケチ生活に挑戦中の身としては行かないほうがいいのか。
 なにしろ出発が決まったのが金曜の夜で、土曜の朝六時に出発だから取りに行っている時間がなかった。手元にないことをすっかり失念していた。レンタルバイクを借りるときディポジットとしてパスポートを預ける。ぼくの場合、長年のつきあいなので預けなくてもいいのだが今回は珍しく預けていた。でも持ってきていたら確実にタチレクで一万バーツの意味のない買い物をしていたから、これで良かったのか……。
 タチレクの市場は、いわば大きな百円ショップみたいなもので、子供がお祭りの夜店に行ったように、意味もなくあれこれと買い物をしてしまうのである。

 本日の予定は、ゴールデントライアングルのホテルをチェック・アウトした後、メーサイに行き、らいぶさん一家はタチレクに入ってのお買い物。わたしゃさみしくメーサイでお留守番だ。どうしよう。そういえばワントンホテルの前に日本語が使えるインターネットカフェがあるらしい。といってもOSは98だろう。フラッシュメモリを認識できないからホームページのアップは出来ない。やってみたかったねえ、メーサイからも。なにしろ「メーサイ日本人会」にリンクされているサイトなのだから(笑)。早くXPや2Kにに普及してもらいたいものだ。
 さてさて、そこで讀賣、産經、サンスポでも読むことにするか。クーラーをかけてクルマの中で寝ているのもいいな。ちょっとヤケ気味(笑)。
 上記は午前三時から書いた文。六時頃に日記も附け終り、すこしうとうとして七時過ぎから行動開始。健康な一家が健全な朝飯を食うのに付き合う。これもこれで私には珍しい体験だ。

 私の運転で出発。順調に十時前にメーサイ着。私だけこちらに残る。完成した門を見たのは初めてだ。昨年の夏は工事中だった。この門の向こうに国境の橋があり、そこはもうミャンマーである。
 らいぶさん一行を待つ二時間は、インターネットカフェで新聞を閲覧しホームページアップを試みているだけですぐに過ぎてしまった。そこのパソコンにはXPが入っていたしUSB接続も出来たのだが、なぜかうまく行かなかった。

 王様の母親が住んでいた住居を見学し帰路につく。
 家族四人一緒の写真をたくさん撮った。それは第三者の私がいたからである。家族だけだとシャッターを押すと誰かが欠けてしまう。最初は「もうしわけないけどここで撮ってもらえますか」という感じだった奥さんも、次第に「はい、次はここよ」になってきて(笑)、しまいにゃ「わたし達はあの橋の向こうに行くから、あなたはここからあの花越しに遠景で撮りなさい」と指示される専属カメラマン状態だった。
 シャッターを押してオーケーかなと思ったら、周囲に他人がいただろう、それが写ってしまった、彼らがいなくなってからもう一回だと叱られる。すみません、気がつかなくて(笑)。

 その点ではすこしは思い出作りの役に立てたと思っている。どこにも私は写っていないが「ああそういえばこれはクン・ユキ(と奥さんも子供達も読んでいた。躾がいいね)が一緒にいて撮ってくれたんだ」と記憶してもらいたい。そう期待してカメラマン業務を続ける。

 昨日は「美しい奥さんとかわいい子供に囲まれてらいぶさんはしあわせいっぱい」と書いたが、「そのしあわせを維持するためにらいぶさんは苦労もいっぱい」とも附け足しておこう(笑)。たいへんだ、おとうさんは。

 私は結婚というものに踏ん切りが着かず直前まで行きながら逃げてしまうことを何度かしてきた。いましあわせな家族の風景と、同時に家族であることの煩わしさを目の当たりにしていると、私の性格とやりたい仕事を考えたとき、それはそれで正解だったのだと思う。私にはこのフリーランスの仕事とまともな家庭の両立は無理だった。きっと両方とも失っていただろう。私はらいぶさんにはなれない。

 チェンライからウィアンパパオの辺りで日が落ちた。らいぶさんに運転を代わってもらう。パソコン用に0.6に落としてある私のメガネでは夜道は危ない。しかしまあ相変わらずタイ人の運転はすごい。道路が良いものだから100キロで走っていても煽られる。80キロだったらパッシングにクラクションだ。うるさいので左車線に寄ろうと思ったら、その時はもう内側から抜きにかかっている。ひやっとした。これで一般道路なのである。広くてまっすぐだからみんなばんばん飛ばす。危ない。一度の事故が大きい怪我になる。

 真っ暗な山道に入る。ここは羊腸しているから慎重に行かねばならない。それでも煽り追い越しに掛かってくるからすごい。まるでラリーである。抜かれ続けている内に奥さんのタイ人の熱い血に火が点いたのか「オトウサン、セーン・シ!(追い越せ)」と指令が出る。おとうさん、「いま追い抜こうと思ってたのになあ」と奥さんには聞こえないよう小さな声で日本語の愚痴を言い、明るく朗らかに「カッポム(承知しました)」と妻の指示に従って追い越しに掛かる。やっぱり結婚はたいへんだ(笑)。

 午後七時半、無事チェンマイ着。ナイトバザーのアヌサーン・マーケットで食事。私の行きつけの魚料理のうまい店に行く。らいぶさん夫婦は知らなかったようだ。これから馴染みの店になってもらえるとうれしい。高いけどね、ここは。でもいつ行っても満員。うまい店はいつでも流行っている。
 もう運転をしなくてもいいのかと思うとビールもうまい。らいぶさんと、無事帰還を祝って乾杯。

←夜のアヌサーン・マーケット



 
 ついでだから書いておこう。らいぶさん、タバコの喫いすぎである。日本で会ったときは控えていたのか、それとも忙しかったという今年の業務で本数が増えたのか、とにかく呆れるほど喫う。こんなに喫う人だとは思わなかった。トイレ休憩などでガソリンスタンドに停まるとそそくさとすぐに吸い始め、出発の時間になってもまだ未練たらしく口にしている。食堂でもそう。どこでもそう。中毒患者丸出し。ひじょうにみっともない。もちろん吸い殻はその辺に捨てる。家族からすこし離れて喫っていても久しぶりに父親に会った子供は甘える。当然銜え煙草で抱き上げるようなことにもなる。

 らいぶさんの家系は癌系で長命ではないという。これで獨身者が好きなように生きていつ死のうともかまわないのだと言っているのなら私も何も言わない。でもらいぶさんは子供達の将来を見届けたいと言っているのだ。優秀な娘はチェンマイの大学を出た後、日本の大学に留学したいと先々の希望を述べているという。まだまだ頑張らねばならない。だったらタバコは控えるべきだろう。
 癌の発病に関して遺伝的な要素は極めて強い。私の周囲でも、祖父が五十代で癌で死んだ人は息子(父)も確実にそうなっている。だからその子供(私の友人)は我が子のためにタバコは喫わず、こまめに定期検診を受けてチェックしている。らいぶさんはタバコを控えるべきである。
 しかしあれだけ喫っていたら、やめるのはきついだろうなあ。重度の中毒だもの。相当の覚悟がいる。かつてのやめるときの地獄の苦しみを思い出した。

 部屋にもどって九時。きょうは午前三時起きだし運転もたっぷりしたから爆睡だろうか。熱めの風呂に入って背を伸ばす。昨夜のロッジはシャワーしかなく、しかも寒い夜なのにぬるま湯しか出ないので早々に切り上げた。なんてったって日本人は熱い湯と風呂桶である。すっかり忘れていたがこのアパートに定住したのも風呂桶が決め手なのだった。タイの住まいはそれなりの高級マンションでも風呂桶はなかったりする。ナコンピンコンドに引っ越したパパも風呂桶がなく、いまそれを備えつけようと苦労している。

 藤沢周平を読み、将棋本を読みつつ、就寝。
16日(月)  昨夜、気持ちよく熱めの風呂に入り、日本から持参したナイロンタオルと炭ボディシャンプーで体中を洗った残滓が見事なまでに汚いバスタブとなって露呈していた。抜け毛にこびりついた垢。きたない。たまりません。後で、とは無視できない。朝からごしごしと風呂桶洗い。これがねえ、ホテルじゃないことの缺点か。すべて自分でせねばならない。まあそのためにタワシも洗剤も先日こちらで購入し用意していたが。


 これはチェンセンで買った御煎餅。磯部捲き。Japanもキティちゃんもニセモノ。中国製。でも色合いからいけそうな気がしたので買った。食べてみる。なかなかいい。お茶請けが手に入って大満足である。
 写真のアップがうまくいっていないから、意味不明の「やすのり」を見てもらうことは出来ないのかな。いいねえ、やすのり、どういう意味?

 来週の日曜日、もういちどらいぶさん夫婦とランパーンのTさんの家に行く。それまでこの一週間はバッキバキに頑張らないと。

 讀賣新聞を買ってステーキハウスへ。
新刊案内のところに宮嶋茂樹のアフガン従軍記「儂は舞い降りた」とあったので思わず笑ってしまう。ジャック・ヒギンズの「鷲は舞い降りた」のもじりだ。こんなの誰でもやりそうな酒場の冗談みたいだけど、今までなかったのだろうか。おもしろいや。帰ったら読みましょう。

 山田太一インタビューがよかった。彼の持ち味である「普通の家庭」を舞台にした作品は、普通の家庭に育たなかった彼にとって、普通の人にとってはそれは普通の世界だったかも知れないけど、自分にはそこは非日常の世界だったとのこと。なるほどねえ、誰だってないものねだりだから知らない世界に憧れる。普通の家庭に育った創作者がおれは普通の家庭しか知らないからと居直ってそこを舞台にするということはフツーはないものな。おれなんかなにもかもフツーの育ちだからそれがイヤでイヤでたまらない。大金持ちでも大貧乏でも××でも△△でもなんでもいいからふてくされていなおるぐらいの特殊な環境で育ちたかった。なんて書くヤツはフツーのあまったれ(笑)。わたしゃそこまでバカじゃない。

 保守党民主党による新党構想は暗礁に乗り上げているとのこと。選挙が近いから小党で獨立することは怖いのだろう。保守党の野田党首は自分だけ自民党復党を画策しているらしい(笑)。

 上記、「あんしょうに」と書くと真っ先に出る変換候補は「暗証」である。でも「あんしょうにのりあげる」と書くと、ATOKはきちんと「暗礁」を自分で判断する。乗り上げるあんしょうは、暗礁と記憶しているのだ。賢い。たまには褒めないと。ATOKを使ったら他のIMEは使えない。

 夕方六時、偶然Oさんに会う。十年来の知り合いだ。いくつぐらいかな。六十代後半か。香川の人だ。市場の話になる。Oさんは市場派なのだ。そんな派があるかどうかはともかく、タイ人の集う市場でいつも飲み食いしている。鐘が掛からなくて言いようだ。バカだなあATOK。せっかく褒めたところだったのに。金がかからなくていいようだ。

 久しぶりに一緒に市場で飲まないかと誘われる。部屋で仕事をしていたら七時に電話が掛かってきた。出かける。あれこれあったのでそれは「或る夜の出来事」として書くことにした。これ、どっかにシリーズものとして収めよう。「どっかに」って「チェンマイ雑記帳」しかないけど。

 また一晩、仕事をすべき時間に外出してしまったが、これは貴重な体験になる。価値のある時間だった。と思うことにしよう(笑)。
17日(火)
 朝九時。中国領事館に査証申請に行った。係の女に「あなたは今までに何度も申請しているので私はあなたの顔を覚えている」と言われる。それが好意的であることを知っていたので、やっと妻が日本に来られることになったと報告する。これからはもう頻繁に中国に行かなくても済みそうだと。おめでとうと言われた。すこし世間話。いま中国人が日本に来ることがいかに難しいか等を話す。ただ、とんでもない人殺しが多くてとは、ちょっと言えなかった。



 以前まったく同じようなことがあった。同じく女係員だったのだが、こちらは深刻だった。職業欄にWRITERとあるヤツが頻繁に中国に行くものだから、いったい何を書いているんだと疑われたのである。申請書類を受け取ってもらうまでに根掘り葉掘り詳細に仕事の内容を詮索された。私はAMUSEMENT方面しか書かないと言った。本人は「娯楽系ライター」と主張したつもりなのだが(笑)果たしてそれで伝わったのかどうか、とにかくその時は何とかなった。それで、それ以降は先輩と作っている制作会社(私はほんの少額の一口を出資しているだけだが)の従業員のようにした。まるっきりの嘘でもないし職業物書きにこだわるつもりもない。その小手先技で以降だいぶ楽になった。
 午後五時。ネットカフェに行く。
 らいぶさんが『作業記録』が読めないと掲示板に書きこんでいた。あれま、ほんとに読めなくなっている。困ったねえ。メーサイで失敗してからだめなんですわ。何度かやってみたがうまく行かない。いや、うまく行かないなら諦めもつくのだが、形としてはファイルのアップが出来た形になっているからよけいにたちがわるい。それなりに問題点もわかってきたので明日には何とかなるだろう。

 部屋に帰ってきてあれこれやって午後九時近く。もういちどやってみたくてまた出かける。
 するとまたいつものようXPの入っている二台が白人によって使用中だった。これは偶然なのだろうか。
 20台の稼働率は半分ほどである。なのにいつも確実にXPの入っているのは使われている。そしてまたこれが面白いのだが、その二台は場所もとびとびで番号も離れているのである。パソコンの設置場所には、日中は、ブラインドを降ろしているものの差し込む陽射しでディスプレイが見づらいから、奥まった暗い場所や、通りに面していない静かな場所等、いくつかの好まれる条件がある。その二台が連続した番号で、共によい場所にあるのなら売れっ子(?)であることもわかるのだが、そうではないのだ。良い条件の場所には置いてなく、並んでもいない。とすると世の中には意識して98ではなくXPを選ぶ白人もいるのだろうか。Hot mailを使用するだけでも(彼らの使用がHot mailのみであることは確認している)XPは98より使い勝手がいいのだろうか。どういうことなのだろう。なんとも気になる話だ。かなりの確率、単なる偶然と思うのだが。

 しばらく待ったが二台とも空かない。奴ら、おそろしく長い英文メイルを書いている。その間、バイクで他の店も何軒か見に行ってみた。一軒、XPが一台入っている店があったが、そこはUSBを使わせてくれなかった。というかジャックがなかった。なかなかうまく行かないものである。諦めて帰ってきた。
 時間の過ぎるのが早い。すぐにもう午前零時だ。たいしたことをしていないのに時間だけが素早く過ぎて行く。あせる。
 昨日飲んだOさんは、「あの店にいるとええ時間つぶしになりますわ」「なんかええ時間つぶしはないですかね」と何度も口にしていた。つぶす時間のある人がうらやましい。わけてもらいたいぐらいだ。まあOさんは年配のかただ。自身の人生を築き上げ、今は悠々自適の人だからいいのだけれど。チェンマイにいる人は若者でもこれを頻繁に口にする。私にはわからない。
18日(水)  朝八時から絶好調でThinkPadに向かう。まともな生活をしていると私のようなものでもまともに腹が減るのだと確認。朝食を毎日取るなんていつ以来の習慣だろう。と言いつつきょうはもう十時。出かけるのが面倒なのでまだ朝飯を食っていない。食パンのようなものを買ってきて備えつけておくべきなのか。体が腹が減ったと言っているのだから。朝飯を食いたがる自分の腹が他人のようだ。
 昼。ネットカエェに行く。またもアップ失敗。というかこうなるともうぼくの実力では追いつかない。だってプロバイダーにはファイルは送られているのだから。『作業記録』だけが表示されない。困った困った。でももうすぐ帰国だ。もうどうでもいいや。

 午後二時。帰りに『サクラ』を覗く。パパだけなら寄ろうと思っていた。すると最近の常連が早くも集っていた。あれえ、中にひとりランプン組がいるぞ。きょうってタイの祝日かなんかなのか。わからん。寄らずに帰る。

 彼らの中のひとり、タイ語に自信のあるらしいヤツが、よく下品な話をする。タイ語で女のオナニーをなんと言うか、なんて話を延々としている。同じく下品な連中が耳をそばだてて聴いている。ぼくは関わらないようにする。そんなものを覚えてもなんの役にも立たない。いや、もしかしたらどこかで役立つこともあるかもしれないが(?)マイナスの場面を想定すれば覚えないほうがいいに決まっている。とにかく外国語は、下品な言い回しは覚えないほうがいい。

 以前どこかのタイ関係のサイトに「わざとしょんぼりを装って、どうしたのと女に聞かれたら、きょうは生理なんだと言うと受ける」と書いてあった。生理というタイ語を紹介し、その言い回しを懇切丁寧に教えていた。その通りだろう。たしかにそれが受ける場もある。だけどそれはかなり限られた下品な場だ。そんな話をしてそういう場で受けるより、そういう言い回しをしてはならない場でしてしまい、場が凍りつくことのほうがぼくには遙かに怖い。バカの一つ覚えで、それを言ってはならない場で得意げに言っているバックパッカーの姿を想像して心が冷えた。下品な冗談は身につけないほうがいい。ワタシはそう思っている。

 最近の『サクラ』を昔と比べてどうしようもなくダメだと思ったのは、過日、上記の連中と一緒にいたときだった。下品な話が終り、やがてなぜか消費税の話になった。丸テーブルのおもしろさはこんな風に話題が回るところにある。やがてはヨーロッパと同じように20%ぐらいになるのはしかたないだろうと北欧の税金の高さなど遡上に上げて甲論乙駁して盛り上がった。彼らともこんな話が出来るのか、昔の『サクラ』みたいでなかなかいいなと思った瞬間、おっかない顔をした(笑)ひとりのおやじが「やめだやめだ、そんな難しい話はやめてくれ、おれはタイに遊びに来てるんだ、そんな話はしたくない、聞きたくない」と大声で遮ったのだ。

 毎度言うことだが昔の『サクラ』なら、こういうときナベちゃんが「あんたはしたくなくてもおれたちはしたいんだ」とクールに言ってくれて、買春話しか出来ないそのオヤジは、我が身の話題の狭さを恥じつつすごすごと去っていったのだった。
 しかし今はナベちゃんはいない。みんなはそのおっかない顔のオヤジに気を遣うように話題をまた女関係にもどし、消費税話を始めた彼と、真っ先にそれに反応していたぼくがむしろ居づらくなって席を立ったのだった。ぼくも「たまにはこんな話もいいじゃないですか」ぐらい言いたかったけど、どう考えてもそのオヤジの顔はまともな人間の顔ではないのである。ひねくれたゴリラみたいな顔をしているのだ。怖いのである。写真で見せたい。どういう生き方をするとあんな顔になるのだろう。インタビューしたいな(笑)。

 部屋にもどって仕事。
 暑いのでクーラーを入れる。

 ジャズが聴きたくなった。ハードディスクに入れてきたウィントン・マルサリスを聴く。ラジカセの音が悪い。くぐもっている。気になる。値段的にこんなものなのだけど。



 午後八時。もういちどネットカエェに行く。まだしつこくアップしようとしている。努力はするがダメ。もう諦めるか。

 九時過ぎ、夜食を食って帰るかと『サクラ』を覗く。するとなんとまだ昼の連中が丸テーブルにいた。信じがたい。六時間、いや七時間いるのか。ほかにすることはないのか(笑)。それでいてほとんど金は落とさないのだからシーちゃんが怒る気持ちもわかる。しかしまあなんて暇な人たちなんでしょ。理解不可能。寄らず。
 近くの屋台で飯。初めて食ったものがうまかった。
 ビールを飲み、飯を食って120バーツと言われる。どう考えても80バーツだと思うのだが黙って払おうかと一瞬躊躇した。そのほうが丸く収まる。何度もそうしてきた経験がある。小さな額だ。でも今は意見を言うべきと判断して、なんで120なの80でしょと言ってみる。すぐに80になった。悪意ではなく勘違いだったようだ。とはいえなにをどうすれば120になるのか理解できなかった。20+20+40である。
 こういうときタイ人は謝らない。80のところを120取ろうとしたのだから、客に対してひどく失礼なことをしたのに、しらんふりをする。ごめんとひとことあり笑顔があったら気分良く帰れるのに……。だからこんな小さな金で抗議したこちらだけが気まずくなる。おいしさがふっとんでしまった。

 出発ぎりぎりのとき、元ちとせのアルバムを収めたカセットテープをバッグに放り込んできた。チェンマイの夜に聴く彼女の歌声は新鮮だった。持って行こうと決めていたのではなく、もう何ヶ月も聴いていないのに、ふと目がとまっての事だったから、ことさら新鮮に感じた。

 ネットのスポーツ紙の記事で、その彼女が紅白歌合戦の選に漏れたと読んだ。あんなものもう三十年以上、いや確実に四十年近く見ていないし、これからもまず絶対に見ることはない(ブラジルにでも移住しない限り)なんの興味もないシロモノなのだが、でも視聴率のためのにあれやこれやと苦労しているのなら、今年という年の話題性として、彼女を出すことはかなり大きなアドバンテージだったのではないかと思う。それを落とすとはどういう感覚なのか。ぼくからすると今年、彼女を落としてまで出す価値のある歌手など、ほとんどいないのではないかと思うほどだ。

 と書いて、ぼくが彼女のファンであり彼女を紅白に出すべきだと憤慨しているなどと勘違いされると困るので念のために書いておく。ネットというものに関わっていちばんイヤなのはあまりに誤解が多すぎることだ。いっぱい書けば誤解は減ると思って頑張って書いているのだが、どうやらこういうのは書けば書くほど増えて行くものらしい。

 ぼくはそもそも紅白に興味がないのだから、そこに誰が当選しようと落選しようとなんの興味もない。あくまでもこれは、時代性話題性からの戦略を考えたとき、彼女を出すべきだと思ったというイヴェント・プロデューサー的な感覚である。なぜこんなことを言いわけがましく書いているかというと、すでに出発前の週刊誌で芸能評論家や音楽通の藝人が、「あれが受かってこれが落ちたのはおかしい」「これではもう紅白の価値が」「受信料を払う気になれない」と毎度恒例の発言をする特集を読んでいたからだ。これはこれで暮れの風物詩である。でもぼくは関係ない。それと同じ類と思われるのは困る。よって言いわけを書いた。書けば書くほど誤解されるのかな(笑)。
 きょう初めて一日の生活費が1000バーツを切った。達成感? ま、ビンボくさい話だ。
   もうチェンマイに来ることもないだろうが、また来るときがあったとして今回のような節約をするかというと、これはもう絶対にしない。異国では派手なことをして遊ぶのが楽しい。節約生活するのなら来ないほうが良かったというのが実感。その点で、一日でも長くこちらにいたくて貧乏生活をしている連中とはぼくは根本から違っている。なんてことは今更書かなくてもそれは十年以上前のバンコクでわかっていたことだが。
19日(木)  朝八時から読書。勉強になったことがあったので記録しておこう。

 レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』に出てくるセリフ「さよならを言うのはわずかのあいだ死ぬことだ」は有名である。私のようにハードボイルドに興味がなくても、この英語のセリフを「To say good-bye is to die a little」とすぐに言えるぐらいだ。むふふ、バカではないな、としばしうっとりする。しかしうすらバカはここまでが限界。これがフランスの詩人・アルオクールの書いた詩『別れの詩』から来ていることまでは知らない。でもそこまで知っていて自分をうすらバカと言ったらイヤミになるよな。ま、それはともかく。
 このフランスの原詩「パルチール・セ・ムーリアール・アン・プウ」を英語に置き換え、それを日本人翻訳者が訳して有名になったのが上記のセリフになる。つまりこれは日本人翻訳者の作ったセリフである。

 この訳に関し、フランス語専門家が、原詩を「大切な人と別れることは、自分の一部が死ぬことだ」と訳し、これが正しいだろう(=上記の英語訳日本語は意訳しすぎ)と言っているという意見を読んだのである。そのポイントはアン・プウ(英語のa little)を「わずかのあいだ」と訳することの無理にあるらしい。そうだよなあ、言葉としてこのほうが自然だ。今までこのセリフを「愛している女としばし別れることは、次ぎに会うまで男は死んでいるようなものだ」というキザなものと解釈してきたわけだが、小説『長いお別れ』はともかく、原詩に関しては正しく「大切な人との別れは自分の一部を失うほど辛いことだ」と採ったほうがいいようだ。素直に意味も通じる。勉強になった。

 最初に「うすらバカの限界」と書いたが、ほんとは英文がすらすら出てきたとき、もしかしておれってもううすらバカ脱出かと思ってしまった(笑)。しかしその後すぐにフランスの原詩を知らないことを知らされ猿の浅智慧を痛感したのだった。賢者への道は遠い。
 懐かしのテレビ番組『新撰組血風録』の話を読んだ。テレビで放映されたのは昭和40年から41年。全26回。現在はヴィデオ化されているが、それまでは毎年ファンが集って上映会をやっていたと知る。そんなに人気が高かったのか。

 ぼくは偶然だがこれを毎週見ていた。モノクロテレビ。中学生。たしかに面白い時代劇だった。土方役の栗塚旭、沖田役の島田順司が印象的だ。左右田一平というとぼけた顔の巧い役者の名もこのとき覚えた。芹沢役の遠藤辰雄もそうだ。この人は後に大川橋蔵の銭形平次で箕輪の万吉親分をやる。原作が司馬遼太郎の土方にスポットを当てたものなので(今じゃ新撰組と言えば土方だがそれまでは暗いイメージしかなく現在の土方のかっこよさはひとえに司馬さんが作り上げたものだという)近藤隊長は脇役、だから役者も覚えていない。芹沢はひどい嫌われ者に設定されていた。
 まだカツラの技術も低かったので、アップになるといかにもカツラを被っていますと生え際の辺りが見え見えになり興醒めだったものだ。

 午前十時半。シャワーを浴びる。私は毎朝シャワーを浴びるほどきれい好きではない。だいたいが今の日本の除菌シリーズ製品など精神病だと思っている。中国人ほど不潔になりたくないが病的な潔癖症も気持ち悪い。前夜風呂に入ったなら、男が毎朝シャワーを浴びる必要はあるまい。しかしなぜかここ数日、毎日洗っているのに頭が痒い。それでここのところ連日、朝のシャワーとなっている。毎日感じるこの痒みは完全に禿げる前兆なのか、いや日頃のケアが実って新しい毛が生えてくる予兆と捉えることにしよう。人間、希望的でなければ生きて行けない(笑)。

 シャワーを浴びているとノックの音。頭にシャンプーの泡をくっつけたまま、腰にバスタオルを巻いて出る。レンタルバイク屋が、今借りている古いバイクを新しいバイクに交換してやろうとわざわざ持ってきてくれた。長いつきあいとはありがたいものである。
 とはいえぼくなりに彼に心遣いはしているつもりだ。たまに、いつもありがとうとウイスキーを一本差し入れしたり、空港まで送ってくれたときに多めの心つけを渡したりしている。それだけでここまで気を遣ってくれる。人情の機微は世界共通だ。これなんかはパパに教えてもらった面がある。パパは日本的な心遣いをすることで、実にうまくチェンマイを乗り切っている。そっと渡す500バーツの気配りがどれほどパパの世界を潤滑に回転させていることか。

 チェンマイで問題を起こしている人には共通の性質がある。端的に言うなら「おれは規定の料金を期日通りに払っている。文句あるまい」と日本的な杓子定規のリクツを強引に押し通す人だ。ブレーキやハンドルで言う「あそび」のない人である。フレキシブルな対応が出来ないのだ。きちんと契約に乗っ取っているなら何十万バーツでも即金で払うが、そうでないものには100バーツさえも惜しむ。そういう感覚だ。でもここは日本ではない。相手は日本人ではない。こんな人がつまらない問題を起こし、刑務所に入ったり殺されたりしている。
 かといってぼくがパパのようにそういうことに長けているかというとそんなはずもない。まったくだめな方である。なのに今までトラブルに巻き込まれず刑務所にも入らず殺されもせずに来たのは、だめな自分を知っていてそういうものに近寄らないようにしてきたからである。これ、小さなコトのようでかなり重要だ。そうなってしまった人というのは、だめなぼくから観てもよりだめなのに、そうではないと自分を勘違いしているのだ。ポイントはここである。

 もういちど風呂場にもどり、泡を流していたら今度は電話。らいぶさんから。今から遊びに行っていいかと。
 丸一日誰も訪ねて来ないし電話もかかってこない環境なのに、よりによって頭を洗っているときに連続するとは、まったくもってタイミングとは奇妙なものである。
 らいぶさんが部屋に来る。原稿を書き上げる間、しばらく待ってもらう。
 BGMにショパン

 ショパンと言えば。
 T漁労長は狷介な性格故あまり日本人間で評判はよろしくない。ぼくは数少ない彼との仲良しになる。彼がぼくの部屋に遊びに来たとき、ちょうどショパンが流れていたことがあった。
「いやあこれはこれはまんずまんず、こんなのきいだら心があらわれるようだべな」とT漁労長は心底から感服したように山形弁で言った。そんなことを素直に言える彼がぼくは好きである。

 らいぶさんにネスカフェのインスタントコーヒー(スティックタイプ)を出したが、きっと甘かったろう。いや、完全にタイ化しているらいぶさんなら大丈夫か。ほんと、溶け込んでます。

 ステーキハウスで食事をしながら、世間話。
 ビアチャン三本。
 顔なじみになった経営者がサラダをサーヴィスしてくれた。

 牛を食わないらいぶさんはポークステーキ。これはタイ人の奥さん方面からの宗教的戒律。こういうのっていいと思う。
 ぼくの友人に犬肉が好きでわざわざ韓国まで出かけて食しているのがいる。これもいいと思う。ぼくは犬は食わないが、食は文化だ。口を出すべき事ではない。韓国人と話すと、奥さんが、旦那が四十をすぎたらやはり犬肉をくってもらわないと、と言う。精力恢復にすばらしい効力があるらしい。

 くだらないのはアメリカやオーストラリアの連中が言うクジラやイルカである。クジラは毎日全人類より多くの魚を食う。適当に間引かないと魚がいなくなってしまう。人のためでありクジラのためであり魚ののタメでもある。今クジラは増えすぎている。間引くのは海産物でタンパクを補給している諸国にとって必然なのだ。イルカだって好んで殺しているのではない。生活の中の防衛だ。

 さらに奴ら以上にくだらないのが、こういう実際問題として牛肉を押しつけるための経済戦略や政治問題として存在しているこれらの問題を、それに気づかないまま安っぽいヒューマニズムで踊らされる日本人連中である。
 その代表がピースボートのツジモトキヨミのような女になる。ぼくはツジモトが嫌いと言うより(大嫌いだけど)ツジモト的な存在がもうダメなのである。たとえばジェンダー・フリーもそうだし、問題になっている「子供の人権を認める保育園」なんてのもそうである。だから社民党のツジモトキヨミというひとりの政治家(?)とは関係なく、あのようなタイプの存在がもうダメなのだ。そんなわけで、「ツジモト? なかなかいいんじゃないの、おもしろいし」なんて思う人とは絶対に相容れない。そこんとこをはっきりさせて、しっかり縁切りしましょうね!

 飯を食い終り、この時間なら空いているはずと『サクラ』でコーヒーを飲みつつパパとお話しようと思ったら、最近の常連で既に満杯だった。大嫌いな在日朝鮮人のK(今は在タイ朝鮮人)がいたので入らずに帰る。なんであいつは最近あんなに居座っているのか。
 らいぶさんも指摘していたが、パパの憂鬱そうな顔が気になった。すこしも楽しそうじゃなかった。だろうなあ、あの常連と一緒じゃ。

 らいぶさんの学校帰りの子供達とJJカフェで待ち合わせ。奥さんに夕飯をうちで食べないかと誘われたので甘えることにする。
 先日怖い思いをしたのでバイクはアパートに置きクルマに乗せていってもらう。酔っても町中のトコトコ走りだと平気だが、郊外のクルマが100キロでぶっとばしているところはさすがに怖い。自重した。

 らいぶさんのお家。通称、らいぶ御殿(笑)。
 奥さんのタイ料理でタイウイスキーを飲む。
 なんとここでらいぶさん、禁煙宣言! をした。

 奥さんも子供さんもやめて欲しがっていた。そんな話をして、奥さんが来年からやめてくれないかと提案したら、いきなり本人が、「来年からだったら今からしても同じだ。今からにしよう」と言ったのである。
 つらいだろなあ、大丈夫だろうか。ほんと中毒していたから心配である。でも9歳になる娘さんがおとうさんが煙草を止めてくれたと万歳をしながら走り回っているのを見たら、頑張って欲しいと思った。なにしろ喫煙にいいことなどなにひとつないのだから。

 らいぶさんの進学話を聞く。公務員を早期退職してこちらに来たら、らいぶさんは頑張って勉強してこちらの大学に進学したいと思っているそうだ。よいことである。ぜひ実現してくれとぼくからも檄を送った。後三年後に退職してこちらに来たとして、何年か準備もあるから、五十歳の大学生になるだろうか。
 実はぼくも五十歳で学士入学をしようと思っていた。過去形ではなく現在進行形にしたいが妻をめとってしまったので諦めるべきだろう。妻を日本語学校に通わせぼくも大学に行き、「夫婦揃って学生です」ってのもやってみたいが(笑)それには経済的基盤が脆弱だ。べつに六十だろうが七十だろうがかまわない。とにかくもういちど本気で勉強したいという気持ちは今も強い。遅すぎるということはない。諦めない。ぼくもやる。らいぶさんにはぜひとも実現して欲しい。

 帰ってきて10:30.
 毛布一枚で寝るには寒いようである。日本の夏がけ布団のようなものが欲しいのだが、それは贅沢か。
20日(金)  朝八時から行動。お仕事。
 十時に中国領事館に査証を受け取りに行く。1100バーツ。3300円としても日本の6000円よりずっと安いし、なによりいつも混んでいる東京の中国大使館に行くことを考えたらこれは抜群に効率のいい方法である。これで中国に行く準備は整った。

 バイクで町を走る。ティーシャツ一枚ではすこし涼しいぐらいの天気。でもこれがお昼になり陽射しが強くなるとちょうどいい気候。仕事をしている午後は蒸し暑くてクーラーを入れるときがある。そして夜には長袖がないと寒くなるほど冷え込む。ずいぶんと表情豊かな季節だ。
 『サクラ』に行くと午前中から丸テーブルは満員。嫌いな人たちばかりなので寄らずに帰ってくる。これは決してひねくれた感覚ではない。

 先日運良くパパと二人っきりになれたときがあった。
 パパが食事をしているぼくに松茸のお吸い物を出してくれた。永谷園のちょっと人工の松茸の匂いが強すぎるあれだ。常連のプレゼントだったろう。
 いただいた後、おいしかった、ごちそうさまでしたと言ったら、そうなんだよねえ、ひとことそう言ってくれればぜんぜん違うのに、とパパが憂鬱そうに話し出した。最近はお茶を出したり、自分用のおつまみをそのお茶請けに出してあげたりしても誰も礼を言ってくれない、もちろん礼を言われたくやっているんじゃないけど、なんか世の中おかしくなっている、日本人はありがとうってコトバを忘れたよ、ここに来るお客さんも確実に変わっている、と。

 丸テーブルに坐っている常連はあまり金を使わない。これはまあ昔からそうでシーちゃんはいつも怒っている(笑)。毎日10バーツの紅茶一杯で何時間も粘る常連に直接それを言い、怒らせてしまったこともある。それで来なくなった人もいる。パパが手みやげを持って謝りに行った人もいた。それでもそれはいつもそこにいるから賑やかしにもなり、ろくでもない闖入者を阻む効果もあり、大切な『サクラ』のいつもの風景なのだった。

 ところが今いる常連はお土産を持ってきてくれたりするわけでもなければ、なんらかの心遣いをするわけでもない。ただとぐろを巻いて居座っているだけだ。その彼らに淹れてやる日本茶は、パパと親しい旅行者が日本から持ってきてくれたプレゼントである。パパはそれをサーヴィスとしてその居座っている今の常連に淹れてやるわけだ。
 そこでパパが首を傾げるのは、パパのサーヴィスである日本茶を淹れてもらってもありがとうもごちそうさまもなく、手伝おうともせず、それどころか茶碗を片づける際にも協力すらしようとしない彼らの態度なのである。そもそも日本茶はチェンマイでは貴重なものだから、どこでもコーヒーや紅茶と同じような値段で有料である。それをパパはろくに金も使わない連中にサーヴィスで出している。なのに彼らと来たら、パパが懸命に手を伸ばして茶碗を片づけようとしている時でも、目の前に茶碗があってもそれを取り上げるでもなくただぼけーっと見ているだけなのである。パパはそれに腹立っていた。これは見ていてぼくも呆れた。50代、60代のおじさん達なのだ。まるで電車の中で化粧している女子高生を見るような奇妙な気分になったものだった。

 チェンマイにやってくる日本人の質は確実に落ち続けている。まだまだまともな人は多いと信じたいが、こと『サクラ』に関する限り、それはもうどうしようもないところまで来ている。
 ぼくが『サクラ』と完全に無縁になる日も近いようだ。既に一度パパが来なくなったとき切れているし、日本食は必要としていないのでこだわりもないのだが……。

 それでもシーちゃん一家とは仲良しだし、そこそこに縁を繋いでおきたいと、夕方から夜はその常連がいるから無理でも、午前中に出かけてみたり、パパが出勤してきて比較的暇な午後二時頃に覗いてみたりと策を弄していた。なのにいつでも嫌いな奴がいて最近はもう行く気がなくなってしまった。あそこまで毎度行って素通りして帰ってくるのも虚しい。よく出来たもので、かりにぼくの嫌いな奴が三人いるとして、それが午後六時のテーブルにまとまってくれているのなら、その時間を避ければいいから楽なのだが、ちょうど朝、昼、晩とひとりずつ来ていたりして、ぼくはいつも行けない状態になってしまっている(笑)。むずかしいものである。

(後日註・「チェンマイにやってくる日本人の質は確実に落ち続けている」という言いかたは明らかに間違っているので訂正する。以前よりも大勢の日本人がチェンマイにやってくるようになり、たくさんの日本食堂が出来、あちこちに散らばるようになり、『サクラ』に来る人たちの質が落ちた、ということだろう。『サクラ』のサーヴィスの質も落ちているのだから同じようなものか。)
 夜食に近くの屋台に行く。先日食べたものがおいしくて期待していったのだが、うまくなかった。いつものおばさんが休みで、手伝いの太った娘がメインだった。同じ素朴なタイ料理でもこんなに違うのかと思うほど味が違った。おばさんの息子とその友達なのか、あるいは太った娘の弟なのか、十代後半の少年達数人が器用に店を手伝っている。こういうところで作るタイ料理というのはかなり簡単なもので、日本で言うなら駅の立ち食いソバに近い。少年達の作るものもいつものおばさんの作るものも見た目はまったく同じだ。でも確実に味が違うのだから料理とは奥が深い。無愛想な店なので行きたくはなかった。先日の味が良かったので行った。なのに今回は味は悪くて無愛想だけが同じだった。最悪の結果(笑)。うまくゆかん。
21日(土)  朝七時。ランパーンに向け出発。同行はらいぶさんと奥さん。ランパーンの市内まで100キロをらいぶさんの運転。そこでカオトゥム(おかゆ)の朝飯。100キロを一時間だから正に平均時速100キロである。
 運転交代。そこからTさんの家まで120キロを私が運転。十時半着。

←ンガオの町

 その後、Tさんを交え、みんなでンガオの町で昼食。初めて行ったが小さな町だ。なぜか目抜き通りに目立つ金行が二店もあった。よほど金が好きらしい。上の写真。

 午後三時。Tさんと二歳の息子を連れチェンマイへ向けて出発。ランプンでらいぶさんに運転を交代。

 きょうは500キロの内350キロぐらいを運転した。最高の道路で楽しいドライヴだった。

《タイの道路のこと》
 とはいえそれは「高速道路のような一般道路」なのであって、最も安全だと言われる信号や交叉点のない高速道路ではないのである。つまり、片側三車線あり、さらに真ん中にもたっぷりと緑地の中央分離帯があるという日本の高速道路よりも遙かに広くて走りやすい道なのだが、同時にそれは人や動物が普通に暮らしている生活空間の道なのだ。だから犬が横断しようとしているし、いちいち何キロも先の正規のUターン場所まで行っていられないと強引に中央分離帯を乗り越えて横断してくるバイクなどもある。道路脇に子供の姿も散見する。涼んでいるお年寄りも見える。そこを巡航120キロで走るのだから危険が一杯でもあるのだ。

 犬がふらふらと歩いていると(タイの犬はなんであんなにやる気がないのだろう)こちらは徐行する。飛び出してくるか来ないか慎重に見極めようとする。らいぶさんの奥さんにスピードを落としてはならないと注意を受ける。らいぶさんによると、タイの自動車教習所では犬を見かけてもスピードを落としたり、万が一飛び出してきても急ブレーキを踏んではならないと教えるそうだ。前後のクルマを巻き込んでより大きな事故になるからである。犬が飛び出してきたらすなおに跳ねとばさねばならない。そう言われてもついつい徐行してしまう。
 ちょっと解りづらい写真ですが、クルマの中から道路を写したもの。道の真ん中にある茶色の物体は子犬。死んでいるのではなく道の真ん中でお昼寝。どいてくれと言ってもどかない。しょうがないので降りていってどかした。何を考えているのかタイの犬。自殺願望なのか。とにかくやたらこんなのが多い。

 私はただの一度も犬猫を跳ねたことがないのがささやかな自慢なのだ。それは偶然ではなく、私のクルマに乗った人はみな私が動物にやさしい運転をすると言う。犬猫を見ただけで徐行態勢に入るから目立つようだ。
 自分の猫を跳ねられた経験があるからだろう。瀕死の猫を一週間寝ずの看病をし、看病疲れのこちらがぶっ倒れるころ、猫が自力で起きあがったときの感動は今も覚えている。

 田舎の家の周囲で轢死した無縁佛の犬猫をずいぶんと埋めてやったものだ。それは父がやっているのを見て真似た。子が親の背中を見て育つのは間違いない。
 数キロ離れた近所に、月に一度は必ず見る犬猫の死に場所がある。細い道路の曲がり角だ。実際よく飛び出してくるので危ない。私もブレーキを踏んだことが何度もある。それでも徐行すればまずあり得ないのに、なんであんなに平気でひき殺せるのか理解に苦しむ。もっとも世の中には、犬猫を見つけると、それひき殺せとアクセルを踏み込むドライバーもいるそうだから、一筋縄では行かない。

 タイの教習所の教えは正しい。その通りなのだ。百キロで走っているクルマが犬を跳ねそうになったからと急ブレーキを踏んだなら玉突き事故になる。そういう道路事情なのだ。こちらとしては後ろにクルマがいるとき、前方にふらふらした犬がいるときには、来るなよと祈りつつ、時には声を出して「来るなよ、来るなよ」と言いつつ通るしかない。今回跳ねずに住んだのは幸甚だった。そんなことをしたら寝覚めが悪い。らいぶさんは跳ねてしまったことがありすぐにお寺に行って厄払い(こちらで言うタンブン)をしたそうだ。

 私はいつも広くて大きく真っ直ぐに伸びたタイの道路を走るたび、元々ここに住んでいたクルマに乗らない人々には大きな迷惑だろうと思ってしまう。

 それはチェンライとパヤオの境目辺りにあるシーちゃんの家に遊びに行き、クルマの運転者から歩行者になったときに思い知った。道の向こうに市場がある。村の小さな市場だ。道路が細かった以前はこまめに行き来していた。でも今は目の前には新設の大きな幅の道路がある。一歩行者となってそこに佇んだとき、それはまるで荒れ狂う大河のようだった。クルマが百キロ以上のスピードでうなりを挙げて走っている。跳ねられたら即死だ。歩道橋も地下道もない。クルマの流れが切れた時を狙って急いで渡る。だだっ広い道だ。30メートル、もっとか、それぐらいある。お年寄りにはきついだろう。現にシーちゃんのお父さんは夕暮れにここを無灯火で疾走してきたバイクの少年に跳ねられ長い療養生活を強いられた。ここ二年ほど、シーちゃんに会うとまず私が訊いたのは、お父さんは元気になったかということだった。やっと今年の春ぐらいから歩けるようになったらしい。お父さんの長い入院生活にはシーちゃんが『サクラ』で稼いで得た貯金が役だったという。

 平地の多いタイでは真っ直ぐで広い道路を簡単に新設出来る。産業や輸送効率だけを考えて作られたそれは、のどかな村を分断する。ランパーンに向かう道も両側にのどかな風景が拡がっていた。その素朴な家並みとあまりに広くて真っ直ぐな道路は不似合いだった。いかに交通量が少ないとはいえ、この道路はここに住む子供やお年寄りには悪魔のように怖いものではないかと思った。山地80%の日本と台地70%のタイの差を道路を走るたびに感じる。
 午後七時チェンマイ着。タイスキの『コカ』へ。みんなで食事。久しぶりに私がおじやを作った。らいぶさんと奥さんが喜んでくれてうれしい。


 Tさんは二歳の子供を抱くときにもくわえタバコだ。危なくて見ていられない。なぜタバコという嗜好品をかわいい子供のために控えることが出来ないのか。せめて抱き上げたりするときぐらい消せばいいだろう。理解に苦しむ。それが中毒者なのだろうが。
 隣の席でタバコを喫われるからすこしも飯がうまくない。

 タイの田舎人の子育て方法を否定し、Tさんが高邁な理想を言っている。マナーは子供の時に教えるものだ、フォークやスプーンの使いかた、子供は大人を見て育つ、だからこそ大人はしっかりせねばならないのだと言っている。私はそれを認めない。Tさんはそれ以前のルール違反を既にしている。しゃべる資格がない。煙草呑みは汚らしい。見たくもない。
 らいぶさんの禁煙は順調。続いて欲しい。
 午後八時半解散。運転の疲れで熟睡すると思うのだけれど。


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