2002年ドライヴ話


★ゴールデントライアングルへ


他のペエジでも書いたけど、運転席から撮った道の真ん中で寝ている犬。こんなのがそこいら中にいる。轢いたら気分が悪いから目をこらして走ることになる。
 この時はどいてもらえず、降りていって抱いてどかした。なんだかなあ。


 二度目の遠出は12月14日、土曜日。
 ランパーンの家で生活するようになったTさんに差し入れを持っての陣中見舞い。同時に子供達が休みの週末を利用して、ゴールデントライアングルへの一泊旅行をしようというもの。
 らいぶさんは11日にチェンマイにやってきていた。誘って頂いての参加である。



 目覚ましを四時半にかける。五時には起き出して準備にかかった。
 らいぶさん一家のお迎えが来たのは六時十五分。まだ外は暗い。いつもはなかなか起きない子供達が、きょうはリゾート(タイ語だとザジズゼゾがなく、末尾のトは発音しないのでリソーになる)に遊びに行く日だと言ったら素早く飛び起きたそうな(笑)。
 七時過ぎ、チェンマイ県を出た辺りでやっと明るくなる。

 Tさんの家に九時半着。220キロ。途中でガソリンスタンドと食堂での休憩が入っている。巡航120キロ。ほとんど信号もない道を平均時速100キロだろう。なんともタイの道路は快適だ。日本の高速道路以上。



 ランパーン、十一時発。写真はTさんの住む家のご近所。親戚。プレゼントや見舞い品を渡し、一時間ほどで出発。
 チェンライ市内での食事休憩を挟み、チェンセンに三時着。
 走行距離はもう早くも500キロを突破した。
 ゴールデントライアングルのリゾートロッジにチェック・インして三時半。



 ゴールデントライアングルも十回も来れば目新しいものはなにもない。って、元々なにもないところなんだけど。でも今回は子供達が一緒なので、子供中心の旅行というのは、子供のいない私には新鮮だった。彼らが人なつっこくまた可愛い盛りの年齢なので楽しい。

 クルマの中で彼らがタイ国歌を歌ってくれて、次ぎに日本国歌を要求したので、らいぶさんと「君が代」を歌うことになる(笑)。タイ人の奥さんが「お葬式の歌のようだ」と感想を述べた。ま、たしかに地味ではある。

 ぼくも昔、派手さのない君が代が好きではなかった。思想に関係なく、日の丸はデザイン的に好きになれても君が代は音楽的に好きになれなかった。今もその気持ちはある。タイ国歌はいいメロディである。アメリカ国歌も好きだ。三拍子なのに昂揚感がある。

 しかしこれも勉強してみると、どこの国も国歌とは「たとえ血を流そうとも敵を倒し、おれたちは祖国を守り抜くぞ、この誇り高い我が祖国を」のような闘いを鼓舞する激しい内容の歌ばかりなのである。タイ国歌の内容も過激だ。君が代のようなのほほんとした内容の国歌は稀有なのだと知る。これ実はすごいことなのだ。誇るべきは戦勝国に押しつけられたインチキ憲法ではなく、この稀有な存在の国歌なのである。
 タイの国旗は、真ん中の青が王様で、それを守る白の軍隊がいて、その周囲にいる赤が国民である。日の丸がいかにシンプルですぐれた国旗であることか。



 遊覧船に乗った。ゴールデントライアングルも十四年前から通っているが初めての体験である。今までも乗りたかったのだ、と思う。でもひとりで来て乗るのはかっこわるいし、女と来て、向こうが言い出さないのにこちらからは言うのもなんだし、おやじ四人で来て、みんな乗りたかったと思うのだけど、誰もが言い出しっぺになるのを嫌って牽制したりして、いつの間にか乗らないままで来てしまった。

 こどもがいるとこんな時も楽だ。せがまれるままに乗ればいい。買い物をする奥さんを別にして、四人で乗った。本当ははしゃいでいる子供達のいい笑顔を載せたいのだけど、どうにもインターネットというのはイヤな面があるので自重する。らいぶさんに万が一の迷惑を掛けたくない。
 救命胴衣を身につける。料金はひとり100バーツ。


 波を蹴立てて走る。ひさしぶりに小さな船(舟かな?)に乗り、子供の頃を思い出した。あの頃は櫓を漕げたものだ。

 同種の舟と擦れ違うとゴツンゴツンと波がぶつかってくる。その衝撃に水の堅さを思い出す。ふと、水の恐怖も浮かんでくる。とはいえ湖育ちなのでこういう限定された水は平気だ。向こうが見えない海になると急に怖くなる。





 このゴールデントライアングルは、ミャンマー側にカジノがあることで有名だ。そこに渡って儲けてきた友人もいる。話は聞いているがどこにあるかさえ知らなかった。なにしろ馬券で身の破滅を経験しているから極力外国ではそういうものに近寄らないようにしている。
 今回らいぶさんと調べていて偶然解った。普通のホテルだと思って料金を尋ねたパラダイスリゾートというのがそれだったのだ。専門の送迎船が出ている。写真上、左手の船はその専用送迎船。オレンジ色の建物がそのパラダイスリゾート。
 あちらでの宿泊料金は2000バーツ程度とのこと。カジノに行く気もそんなホテルに泊まる気もないので遠慮した。

 なかなか親切でいい船頭だった。河の真ん中でエンジンを停め、しゃべり始めたときは、一瞬5000バーツ出さないと帰さないというチャオプラヤ川の水上強盗を思い出したが(笑)、どうやらそれは杞憂だったらしく、親切に観光案内をしてくれたようだった。疑ってすまん。



 ラオスに上陸するかと言われた。ラオス側の中州をラオスとして開放しているらしい。それが上の写真。上陸用のヴィザ代として20バーツ取られたがスタンプは押してもらえなかった。もしも押してくれるなら最も安いヴィザ切り替えになる(笑)。疑ったお詫びとして船頭にチップ100バーツ。

 所詮観光客から小銭を巻き上げるための急造施設と言ってしまえばそれまでなのだが、ここの雰囲気はなかなかよくて、らいぶさんと二人感激した。子供達が倦きなかったら、船頭を待たせることを申しわけなく思わなかったら、らいぶさんとビールでも飲んで1時間ぐらいいたかった。

 左の写真は茶屋の上の国旗。右下からラオス、タイ、中国、ミャンマーと四カ国。あらためてここが国境地帯であることを思い出す。




 宿泊したのはこのロッジ。ここに決めるまで一悶着あった。うれしいことだったから忘れないようメモしておこう。

 最初に行ったロッジで、ぼくにとって許し難い不愉快なことがあった。タイ人特有の対応のいい加減さだ。でも子供達はそこが気に入っていた。らいぶさん一家もそこに落ち着きたがっていた。だからぼくはらいぶさん一家はそこに泊まり、どうしてもぼくはそこに泊まる気にはなれないので、違うところに泊まる、という方法を提案した。翌朝合流すればいい。小さな町だ。
 子供達はもうそこに泊まる気ではしゃいでいるし、らいぶさんもその案を飲んだ。そうなるはずだった。

 ところが奥さんが、せっかく一緒に来たのだから一緒の宿に泊まりたい、YUKIが泊まらないなら私たちもここには泊まらないと言ったのである。そうしてそこを出ることになった。子供達は不満を言い、らいぶさんは戸惑っていた。

 その後、次に訪れたロッジ(上記写真)をぼくも気に入り、その夜の食事やロッジにもどってからのらいぶさんとの酒、奥さんのお相伴、翌朝の朝食まで、すべて楽しいことになった。それはひとえに、せっかく来たのだから一緒の宿に泊まりましょうと言ってくれた奥さんのひとことにある。元々らいぶさんの奥さんと私は仲良しのほうだろうけど、この男気ならぬ女気には感じ入った。さすがらいぶさんが惚れただけある。

 どうでもいい小さなことだが、上記の「最初に行ったロッジでのもめ事」は時が過ぎると忘れてしまうので書いておこう。
 上写真と同じようなバンガロー形式のホテルに行ったわけである。客は私たち以外いなかった。こちらがいってもいらっしゃいませでもなくフロントの連中はボケーっとたむろしていた。いかにも流行っていないロッジという趣だった。
 そうして右端の部屋にらいぶさん一家が泊まり、その隣の部屋に私、と奴らは采配した。

 そこで奥さんが、子供たちがうるさくて仕事のじゃまになるだろうから、私の部屋を左端の部屋にしてくれようとしたのである。すると奴らはそれは出来ないと言うのである。まったく理解できない。十室ほどの部屋は全部空いているのだ。右端にらいぶさん一家、左端に私でなんの問題もないはずである。なのに奴らはそれは出来ないとがんとして拒む。たとえばそれが給湯や電気代の問題のように、コストに関わる何かがあるならこちらも妥協する。だがいくら考えてもなにもないのである。単に一台の自動車で来た二組の客だから詰めて入れようと思っているだけだ。その後、大勢の客がやってきたときに、順番に詰め込もうと思っているのだろう。だが客など私たち以外には来ない。それは奴らのわがままであり、もしも私たちが別々に来た客だったとしたら、なんの問題もなく左右の部屋に入れているはずなのである。

 私はらいぶさん一家の隣の部屋でもよかった。でも奥さんの提案をなんの意味もなく拒んでいるそいつらを見ている内に、ここには泊まりたくないなと思い始めていた。よって上記のような申し出をらいぶさんにした。とにかく見るからに仕事をする気がなく、笑顔ひとつない連中なのに、こんなわけのわからない主張だけをされたのではたまらない。近くにひとりで泊まり、明日の朝、合流すればいい。その旨を宿側にも伝え、去ろうとした。

 すると、である。当然予想されたことではあるが、客がひとり帰りそうだというので、何事かひそひそやっていたが、いきなり「わかったわかった、じゃあ左端に泊まってもいい」と言い始めたのだ。あたりまえだ。元々なんの問題もないのだから。だけどもうこちらがそんな奴らの所に泊まる気はなくなっていた。ホテルなど山ほどあってみな閑古鳥が鳴いているのだ。

 ということで私が去ろうとしたら、上記のようにらいぶさんの奥さんが、じゃあ私たちも出る、となったのである。
 その後、すぐ近くの写真のロッジに行ったら、ここは私たちのクルマを見るなり係員が飛び出してきてクルマを誘導し、笑顔もあり、すべて楽しく過ごすことが出来たのだった。
 ここで日本人なら、自分たちのだらしなさで客を二組逃がしたことから何かを学んで欲しいなどと思ってしまうが、それは無理。奴らはなにも考えてないし、そのことから何かを学ぶなんて感覚はない。だからこちらも、不快なことはとにかくすこしでも早く忘れる、と、それしかないのである。

 一応念のために書いておくと、私は事なかれ主義者で、極力揉め事を避けるタイプである。自分さえ我慢すればいいのなら、といつもひとをたてる。とにかく波風を立てるのがいやなのだ。臆病と譏られようともしかたない、性格だ。そうやって生きてきた。その私が憤然とここには泊まりたくないと行動したのだから、宿側の対応がいかにひどかったかをご理解願いたい。




 さて、翌日のメーサイ・タチレクでの出来事、亡くなった皇后様が私邸を解放したという観光名所ドイ・トゥングでのことなどは「チェンマイ日記2002暮」に任せて、ここでは違うことに触れておこう。タイ人女性の面倒見のよさと口うるささについてである。




 らいぶさんや奥さんの運転するクルマには今までに何度も乗せてもらっていた。ご夫婦が一緒の長距離ドライヴ、というか家族旅行に接するのが今回が初めてになる。ぼくはそこで──そういうタイ人女性の気質というのはそれなりに知っていたつもりだったけれど──感激するというか、あきれるというか、うんざりするというか、いかにもタイ的な見聞することになる。

 街中を走っている頃からそれは感じていた。やたら奥さんがらいぶさんの運転に指示を出すのである。(続く)





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