チェンマイ日記

2014

●シナ人だらけ

 11年ぶりのチェンマイの印象をひとことで言うならこれに尽きる。シナ人だらけ。がっかり。どこもかしこもうるさくてマナー知らずのシナ人だらけ。しかもブスと醜男ばかり。しみじみとチェンマイが終ってしまったことを確認してかなしくなる。

 空港からのタクシー。ずいぶんと漢字の看板が増えたなと感じていた。ターペー門を過ぎ町中に入るとさらにそれを感じる。旅行会社等の看板にやたら漢字が多い。チェンマイは漢字で清邁と書くが、「清邁文化旅行社」のような看板が目につく。

 白人相手のトレッキング企劃はチェンマイやチェンライの売り物だ。日帰りもあるし、二泊三日なんてのもある。白人はほんとにこれが大好きで、昔も今もこればっかりやっている。だから英語の看板があふれていた。それに負けず劣らずいまシナ人向けの漢字看板が増えつつある。とにかくまあシナ人だらけ。うんざり。

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●案内マップも支那語だらけ

 10年も来てなかったから道路を忘れてしまった。行きたいところに行けない。ゲストハウスに旅行者向けの無料地図があったのでもらう。まず「立体地図」とかで見にくい。ごく普通の地図でいいのに。さらには支那語だらけ。英語があり、タイ語があるが、その倍の大きさで現代支那語の簡体漢字がでっかくある。見にくい。いやこれ醜い。有名なホテルが漢字で表記されている。トレッキングツァーをやるような旅行社が漢字で大きく載っている。これらはみな宣伝のために金を払って掲載してもらっているのだろう。それの表記が英語の倍の大きさで支那語ということは、いかにシナ人旅行者が多いか、彼らが上客であるかだ。
●チェンマイの白人

 いかにシナ人が増えたとはいえ、まだまだチェンマイの観光客の中心は白人である。
 白人嫌い、キリスト教嫌いの私が、むかしからチェンマイに来る白人を比較的好きなのは北欧の連中が多いからだ。デンマークやスウェーデン、ノルウェーである。中でもデンマークはちいさな国なのにずいぶんとむかしから多くのひとと知りあった。人口からの割合では突出しているのではないか。同じ歴史ある王国としての親近感からだろう。その他、フランス人、イギリス人ともよく知りあった。ベルギー人、スイス人もいた。ドイツ人はいない。チェンマイとはあわないのか。

 私がパタヤやプーケット等の南が好きではないのは、あちらは圧倒的にアメリカ人が多いからである。なんともガサツでたまらない。アメリカ人と欧州人はちがうのだなとチェンマイで感じた。
 そのアメリカ人が増えつつある。入れ墨が目立つ。ロイコー通りのような下品な店は彼らの天下だ。もともと私は

●無礼なシナ人──セブンイレブンにて

 
  ●Wifiの普及──ファクスの思い出

 チェンマイで初めてインターネットをやったのは1998年だったか、まあそのあたり。それまでの私は原稿をファクスで送信していた。値段はそれなりに高かったが後に体験するシナの地獄と比べたらまあ割りきれる範囲内。1枚600円ぐらいだったか。旅先でもあり最初は十数年ぶりに手書き原稿を復活させそれで送っていたが、ファクス代がバカにならない。30枚だと18000円だ。よってプリンタを持参することになる。CANONの小型のもの。なつかしいな。

 私はコンピュータ関連のものはハードもソフトも用無しと判断したらまだ美麗なものでもすぐに捨ててしまうが、ほんとに尽くしてくれたなあと感謝するものだけ記念にとってある。PCだとThinkPad、プリンタだとこのCANONになる。もう使うこともないが、それだけ感謝している製品だ。壊れたCANONの複合機も取ってあるが、これは有料で引き取ってもらう金が惜しくて置いてあるだけ(笑)。初めての複合機でだいぶ世話になったが記念に取っておくほどのそれほどの愛情はない。

 携帯できるCANONのプリンタは3台使った。みな同じタイプ。チェンマイでの一番の思い出は、悪い意味になるが、寝惚けていたのか疲れていたのか、変電機を通さずチェンマイの220ボルトにそのまま繋いでしまい、ボンという音と共にACアダプタがご臨終。修理してもらうところを探すのに苦労した。たいした故障じゃないが言い値でかなりの金額を取られた。まあこちらのミス。しかたない。日本から持参する変電機がプリンタよりも重かった。「変電機の思い出」も語るほどあるが、あまり愉しい思いで出てはない。

 プリンタを使うと原稿用紙30枚の原稿はA-4にプリントすると7枚ぐらいになる。これで楽勝。CANONの小型プリンタの往復するあのジーコンジーコンという音が心地良かった。最初のヤツは片道だけだったが2代目からは往復印刷になりスピードが倍になった。なつかしい。



 「シナの地獄ファクス」とは、景洪のホテルにあったファクシミリが信じがたい前時代のもので、ジリジリジリジリと読み取ってトレイは前進しているらしいのだが、まさにミリ単位の前進。確認できないぐらい遅い。シナにもチェンマイと同じくプリンタ持参した。週刊誌の連載コラムで量がすくなかったからプリントアウトすれば2枚に収まったが、国際電話の時間で採られる料金だから、1枚8千円ぐらい取られた。あれはいくらなんでもひどい。あれほど遅いファクスは見たことがない。週刊誌連載をもっているのが1ヵ月も外国旅行するのがルール違犯であり、シナの辺疆の地から送稿できることだけでもよろこばねばならないとはわかっていても、毎週頭の中はファクス料金のことばかりだった(笑)。




 やがてインターネットカフェが出来、そこからメール送信出来るようになる。これはエポックメーキングな出来事だった。今じゃ当たり前だけど、初めてあれをしたときの便利さには驚嘆した。もっとも、着いているかどうか心配で、国際電話を掛けて確認できるまでは不安だったが。便利になればなったでプリンタ持参のころを懐かしく思った。

 あのころ無料のメールと言えばMSのHotmailだった。今から考えるとめちゃくちゃ不便で使いづらいものだったが、あのころは神ソフトに思えたものだ。まだOSはWindows98か。
●Wifiの普及──インターネットカフェの思い出

 私がチェンマイから初めて原稿をメール送信したのは何年だったのだろう、1999年か2000年か。インターネットをこちらで初めてやったのは1998年だったと思う。バンコクやチェンマイから友人に電子メールを送ったが、仕事にはまだ利用していないはずだ。
 2000年の暮れ、テイエムオペラオーの勝った有馬記念の原稿を、こちらのNHKで観戦して、それから送信したことは覚えている。でもあれが初めてじゃない。初めてはいつだったのだろう、日記を見れば確認できるし、そのための日記なのだが、とりあえずそのころから、としてお茶を濁す。 



 持参したノートパソコンで書き、フロッピーディスクに記録して、それをインターネットカフェからメール送信した。やがてUSBメモリ接続が出来るPCのカフェも現れて、そちらを利用することも多くなる。毎度の話になるが、当時のUSBメモリはまだ小容量。私がよく使っていたのは64メガのものだった。とはいえこれでも無意味なほどの大容量。送信するのは原稿だから容量はちいさい。フロッピーディスクで充分。でもフロッピーの読込音がないUSBメモリはなんかカッコイイと感じたものだ。

 USBメモリは使用回数に限度があり、それを越えると使えなくなると言われている。私は製品化されて間もない8メガの製品から使っているがまだそれは経験していない。この64メガはいまも現役だ。今じゃもう爪程度の大きさのMSDカードが32GBの時代となり、写真1枚の容量もやたら大きいから、これをもう使うことはないけれど。あ、そういえばこのUSBメモリも永久保存としての「殿堂入り」だな。もう20年以上前の品だが使用回数はたいしたことはない。せいぜい2000回ぐらい。これぐらいじゃへたらないようだ。



 当時の日記を読むと、私はかなり「店員」にこだわっている。日本の近所のスーパーからチェンマイのインターネットカフェにいたるまで、それが私の基本だからしょうがない。ホテルのすぐちかくにあるのだが、店員の態度がわるいのでもうそこにはもう行かないとか、チェンマイ大学方面で、ホテルからバイクで20分ぐらい走らねばならないが、店員の態度がいいので毎日そこに通ったりとか、そんなことが書いてある。



 チェンマイのインターネットカフェの思い出で、なんといっても強烈なのは、あの9.11だ。2001年9月11日。友人のHさんが、「アメリカでとんでもないことが起きた。まるで映画みたいだ」と昂奮して話している。急いでインターネットカフェに行く。ニュースを見ると、大型旅客機がビルに突っこみ、大破し、ビルが崩れる映像だった。あれほどの衝撃の映像はなかった。
 ●がっかり──歯間ブラシ
●南国のオーデコロン

 南国の熱い空気の中ではオーデコロンの香りなどあっと言う間に消える。飛行機の中で白人のおばさんと隣りあったりすると強烈なそれにまいることがあるが、さいわいにしてチェンマイではそれはない。
 私もBVLGARIのPOUR HOMMEを持参してシャワーのあとに使っているが、この喰う気の中では一瞬にして消えてまったく香りが残らないので物足りないほど。シャワーのあとのしばらくぐらいほんのり好みの香りを楽しみたい。



 バービアの並ぶロイコー通りは深夜になると立ちんぼオカマの出現でも有名だ。


●チェンマイでの暮らし

 今回、日本の午後9時就寝午前3時起床の習慣はさすがにくずれたが、それでも夜は早かった。市場で買ってきたソムタムや焼き鳥、ビールで晩酌を始めるのが午後7時から。持参した本を読んだり、ThinkPadに挿れてきたYouTubeの音楽を聴いたりしていると、午後9時にはもう気分が良くなり、そのまま寝てしまうことが多かった。午前3時4時に起き出して、ゲストハウスのテラスにあるビニールデスクでThinkPadに向かう。足もとにおいた日本から持参した電池式蚊取りが奮闘してくれるが、それでも蚊に食われ、午前6時ころに部屋に逃げもどる。見た目はすごく快適そうだったが、どうにもこのビニールデスクでの時間はさほどでもなかった(笑)。朝のチェンマイをバイクで走る。すると夜は死んだようになっている地域が朝の市場で賑わっている。朝から焼き鳥も売っている。それを買い、この時間はコンビニでは時間制限でアルコール類は買えないが、そこは蛇の道は蛇、横町のおばばのやっている雑貨店ではそんなことは無視して売っている。そこでビールを買い(だいたい中カン2が多かった)、朝酌。うとうとして起き出して10時、というのが多かった。
●亡くなったひとたち

 かつては目を瞑っても行けた場所に目を見開き全神経を集中させて走っても行けない。それどころかどこを走っているのかわからなくなる。

 ひたすら慣れればいいのだと闇雲に走っていたら、チェンマイランドに出た。チェンマイランドというストリートだ。ここは神谷さんがオリビア2を開いて繁盛したら、我も我もと連続し、一大カラオケ街となったところである。オリビア2にはよくかよった。その後、神谷さんが隣に開店した焼き肉屋『北門』にも。おお、「きたもん」と打ったら『北門』と出た。辞書登録してあったのか。

 なつかしいなあと思いつつ午後2時のチェンマイランドをゆっくり走っていたら、『北門』の前に神谷さんがすわっているのが見えた。降りて挨拶する。「おお、いつ来たの、ひさしぶりだねえ」と言ってくれたが多分名前は忘れている(笑)。その後の会話でも私の名前は出なかった。

 神谷さんはこちらの女とのあいだにふたりの子を儲けている。脱線するが、この「儲ける」というのは、ニンベンからもわかるように本来の意味がこどもをつくることである。そこから転じてお金もうけにも使われるようになった。上の男の子がパヤップ大学、下の娘がバンコクの学校に行っているとかで、いま神谷さんはバンコク住まい。数ヵ月に一週間程度チェンマイに来るそうで、私が会えたのは僥倖だった。

 かつて、タノン・ムーンムアン・ソイ2には、有山パパの『サクラ』があり、隣にナベちゃんの『宇宙堂』があり、その向こうに神谷さんの経営するゲストハウス『Jame House』があった。このJameが長男の名前である。

 多くのひとの訃報を聞いた。まあ30近く経つのだし当然だ。神谷さんも脳梗塞をやったとかで、ひとまわりちいさくなっていた。知りあったときは五十代、もう八十にちかいのだから当然でもある。

●方向音痴──ひさしぶりのカオマンカイ屋

 自慢できるほどの方向音痴だ。チェンマイが好きなのも、旧市街が四角い城塞になっていて、しかも一方通行になっているので、こんな私でも比較的!迷わずにすむからだ。そう、あくまで比較的。年に3カ月ぐらい滞在することを10年以上くりかえして、やっとまともに走れていた。10年も来なければ元の木阿弥。完全に忘れている。見事にこのまともなひとなら迷いたくても迷えない単純な町で迷った。どこを走っているのかわからない。以前よく通っていた両替屋、市場など、行きたくても行けない。

 上記、無料地図は役に立たない。今回は心強い味方Asus MeMOPadがあり、Wifiに繋ぐとGoogleもYahooも見事にチェンマイの地図を表示してくれたのだが、旅社の無料Wifiなので離れると切れてしまう。町中いろんな無料Wifiがあるのだが、みな帯に短したすきに長しで役立たない。けっきょくは走るだけ走ってむかしの勘を取りもどすしかなかった。とはいえその「走ること」が大好きで、大きなたのしみだから、そのこと自体はちっともつらくはなかったのだが、しみじみと自分の方向音痴が病的であることを自覚してすこし落ちこんだ。でもかつて通った店を、まともなら2キロぐらいで行けるのに、ああでもないこうでもないとぐるぐると走りまわり、10キロ以上も探してやっと見つけたときはうれしかった。そしてまたそのカオマンカイ屋のおやじが私のことを覚えていてくれたのに感激した。11年ぶりに行ったのにまるで二三日来なかったかのように、「あれひさしぶりだね」と言ってくれた。今回のうれしかったことのひとつである。
●渡り鳥の今

 1980年代から90年代、タイに「渡り鳥」と呼ばれる連中がいた。もっと旧くからいたのだろうけど私はそのころからしか知らない。いわゆる「期間工」である。春から秋にかけての半年間、日本で働く。自動車組立工場のひともいれば、ホテルの賄い場、なんてひともいた。半年間働いて月給30万かける半年で180万。その間、月に10万も使わず節約生活をする。基本、住居に賄い付だから金はかからない。そのために彼らもそういう仕事を選んでいる。

 そうして寒い時期になると、半年で貯めた120万をもって暖かい地に渡る。こちらでは月5万円ぐらいで暮らす。それで酒もあれば女遊びも出来た。快適な生活だった。その間に使うのは半年で30万だから90万残る。一年の内、半分が仕事、半分が遊び。その繰り返し。それで金が貯まる。不安定な暮らしをしているようでいて貯金1千万をもっているひとも珍しくなかった。そりゃそれを二十代半ばから五十代まで続ければそれぐらいはできるだろう。体力が続くならいい人生である。いざというときの貯金まである。



 私は最初はごくふつうの10日程度の旅行者だったが、次第にタイに魅せられ、「渡り鳥」の生活に憧れ、やがて1ヵ月、2ヵ月と滞在するようになる。さすがに日本で仕事をしている私の場合は最長でも2ヵ月だった。それでもこのへんな暮らしでだいぶ仕事を減らした。交友も激減した。タイに夢中だったのでそのときは気づかなかったが。

 タイ嵌り度合を、ホテル泊のふつうの短期旅行者を右端とするなら、タイ人の奥さんをもらい家を建てて住んでいるタイ定住者が左端、となる。その左の内側が年に半年暮らす「渡り鳥」、私はさらにその内側の、右端のふつうの旅行者よりは左の「渡り鳥」タイプだったと言える。

 このグラフ、後に「シルバー族」と言われる「停年後の年金タイ生活者」が増え、あまり意味がなくなってしまった。このひとたちはどこに位置するのだろう。常識的には定住者、永住者と同じくかなり左寄りになるはずだが……。
 過日読んだサイトは、停年後三年ほどチェンマイで暮らし、また日本での生活にもどったという話だった。こういうひとはこのグラフでどこに据えるべきなのか。私のような1ヵ月2ヵ月を積み重ねた半端者より一気に三年もいたのだからより本格的なようだが、サイトを読むと、元々がタイに嵌ったとかではなく、年金による安価な生活を目的として始まっていることから、失礼ながら、そのタイ生活記をずいぶんと薄っぺらく感じた。



 私は、最初はホテル泊だったが、やがて事情に通じてくると──というか「渡り鳥」から得た智識で──月契約で部屋を借りたりするようになった。通年で部屋を借りたままにしていたこともある。一年の内、最長でも4カ月ぐらいしかいられないが、部屋があれば荷物の置き場所になるし、パソコン類や書物、家電類をおいておくと、それはそれは快適な生活になるのだった。毎度書くことだが、私は音楽がないといられない、そしてまたその音楽はウォークマンタイプではだめだ。コンポにはこだわらないが、それなりの大型ラジカセぐらいは欲しい。けっこう大きな問題だった。通年で居場所を確保するとその心配がなかった。おこがましい言いかただが私は〝別荘〟のつもりだった。本物の別荘を持てない貧乏人には安価でイージーだが最高の環境だった(笑)。しみじみと懐かしい。



 タイの日本食食堂で知りあい「渡り鳥」連中と親しくなった。同じタイに遊びに来ているとはいえ私の場合は彼らとは逆の発想だった。彼らは日本で稼いだ金を大切にした。タイの田舎で地道に暮らすのだ。とはいえタイの庶民の月給が15000円ぐらいのときに同じような生活をして5万円を使うのだから充分贅沢でもあったろう。それでも私からするとしみったれだった。
 私は日本で稼いだ金で、物価の安いタイで派手?な生活がしたかった。東京で月40万円の暮らしをしても平凡だ。だがそれをこちらで使えば日本で月200万ぐらい遊興費に使うのに匹敵する。それが愉しくて通っていた。彼らのような節約生活はしていない。こちらで知りあった彼らの「渡り鳥生活の内実」を知らないから、日本で一所懸命に働き、異国で細々と暮らすのはたいへんだろうとよくごちそうしてやった。考えてみりゃこちらは貯金なんて一銭もないその日暮らし。振りこまれた原稿料を右から左に使っている。あちらのほうが貯金も持っていて先々のことまで考えていて、ずっと堅実で優雅なのだった。勘違いバカである。それはともかく。



 90年代中ごろから、彼らはタイはもう終ったと、カンボジアを始めとするさらなる発展途上国に移動した。その後の現状がどうなのか私は知らない。ただ今の日本は、かつてのように気楽に月30万稼げる国ではなくなったろう。

 日本が不況でかつてのように稼げないと判断した彼らはどうしたろう。かつては月30万円稼げる楽な仕事が山とあった。それが不況でなくなった。同じ仕事をしても今は手取り16万ぐらいにしかならない。かつての半分だ。そんな状況で彼らはどうしたか。推測するに、守りの姿勢に入ったのではないか。必ずまた以前のような景気にもどる。それまでは貯めた金で、異国で節約生活で冬の時代が過ぎるのを待とうと。月30万稼ぎ、10万で暮らし、月20万貯める生活をしてきた彼らにとって、月16万になり、10万で暮らしても、月6万しか貯められない生活は屈辱だったのではないか。私はそう思う。だから1千万の貯金から年60万で暮らし、冬が過ぎるまで10年でも待っていようと思ったのではないか。そんな気がする。



 今回、何人かのかたから話を聞いた。「渡り鳥」には亡くなったひとも多かった。でもいい時代に好き勝手なことをして死んだのだから、それが日本人の平均寿命より多少早かったとしてもいい人生だったろう。そもそも平均寿命なんてものには何の意味もない。「我が家」とか「子孫」とは無縁だったが、愉しい人生だったと思う。残念ながら私はそういう生きかたに気づくのが遅く、彼らのような人生は送れなかったが、生まれ変わったらやってみたいと本気で思っている。亡くなったかつての「渡り鳥」たちに合掌。ほんとはそういう親しかった何人かとのバカバカしくもほろ苦い交友記を書きたいが、いまは封印する。もうすこし経ったら書こう。
●チェンマイのガソリンの値段

 雲南山奥のガソリンの値段が、シナの価格で150円以上する。日本との収入差物価差を考慮したら、日本円で1リットル千円ぐらいになってしまうのではないか、いくらなんでもひどすぎる、という話は雲南話としてこちらに書いた。



 ひさしぶりのチェンマイでもガソリンの値段が高くなっていておどろいた。ハイオクタンで1リッター40バーツである。125円ぐらいか。いま日本も高くなっていて165円ぐらいだが、タイと日本のそれを考えれば、これまた日本以上に高いことはまちがいない。

 1990年代から2000年のころ、私の知っているチェンマイの庶民は、日本円換算で月給15000円ぐらいでがんばっていた。ソープランドの娘が月収4万バーツ、12万円であることを自慢したとき、日本では12万円では喰っていけないと言ったら首を傾げていた。

 あれから十年、経済成長により給料も増えたろうが、それでもまだまだバイクに乗って活動している庶民の給料は日本円にして3万円から5万円ぐらいなのではないか。ともあれ、タイのハイオクタン125円が日本の500円ぐらいに匹敵することはまちがいあるまい。



 しかしタイにはその他の部分でまだまだまともなことが多く、ガソリンは高めだが、食物の値段は正当で、不快になることはなかった。雲南でそうなるのは、その他の物価ももまともでないからである。
●貨幣単位──1バーツのこと

 タイの単位は1バーツ、いま3円強である。









●バーミーの普及

 私は大の麺食いなのだが、好きなのはラーメン、うどん等の小麦粉系である。ソバはこだわるほど好きでもない。「××は好きだが、××好きは嫌いだ」という言いかたがある。たとえば「太宰作品は好きだが、太宰好きは嫌い」のように使う。私にとって蕎麦はこれに当たる。蕎麦に関して蘊蓄を垂れるのでまともなのに遭ったことがない(笑)。それだけで蕎麦まできらいになる。ま、とにかく小麦系麺好きである。

 それでこまるのが東南アジアだ。タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、これらの麺はタイのクイッテオ、ベトナムのフォンに代表される「米系」である。これが主であり、みな大好きだ。妻の地である雲南山奥も傣族自治州であるから、市場での麺はみな「米系」、クイッテオである。

 タイには小麦系の黄色い麺のバーミーがある。流れとしてはマイナーだ。私はこれが大好きで、タイで麺を食うと言ったらバーミーナームだった。ちょいとバイクで走ればいくらでもバーミーの屋台に行けたから、それを喰うのに苦労はしていないが、クイッテオ優勢であったことはまちがいない。7対3か、いや8対2か。クイッテオだと歩いて行ける周囲にいくらでもあったが、バーミーだとバイクでちょいと離れた市場まで行かねばならない、なんて感じだった。



 それが今回5対5ぐらいになっていた。私がよく通った市場の屋台では逆転していたかも知れない。値段は10年前の20バーツが30バーツから35バーツになっていた。
 30から40軒の屋台で構成されている市場で、以前はバーミーナームを扱っている店は1.2軒だった。選ぶことは出来なかった。クイッテオ全盛の中、「バーミーナームがあってよかった」感覚である。

 バーミーナームはスープが命だ。麺に関しては立ち食いうどんレベルである。寸胴に作ってあるスープには、それぞれのこだわりがあるが、麺のほうは小麦粉面ともやし等をさっと湯掻いてそれに挿れるのみ。ごく単純な作り。でもスープにはかなり差がある。以前からそうは思っていたが、ラーメン通的なこだわりは断っていた。とりあえずバーミーが喰えればいい。そしてみな「ほぼ同じ」だった。

 今回はそのいつも行く市場で、30から40軒の屋台の中にバーミーナームを扱っている店が5軒もある。食べ比べた。というかすぐに「うまい店、ダメな店」は決定してしまい、毎回同じ店に通うことになった。ずいぶんとスープがちがうのだなと感心した。たかが、と言っては失礼だが、屋台のバーミーナームでも、凝るひとはスープに凝っているのだと、よく理解できた。

 ところで。バーミーでいいのだが、あえて「バーミーナーム」とナーム(水)をくっつけたのは、そのスープのことを言いたかったから。「バーミーヘン」もある。「汁なしラーメン」である。しかし肝腎なのはスープであり、麺は上記のように市販のそれを単に湯掻くだけなのだから、どう考えてもここは「ヘン」ではなく「ナーム」だろう。麺好きとしてタイにはまって間もない頃はよく「ヘン」も喰ったが、さすがにいまは「ナーム」のほうだけである。

 今回うまい店を知ったときは、連続2杯食べてしまった。食い物はすべて酒の肴という少食の私にはめずらしい。まあそのときもビアチャンの500カンを2カン飲んだけれど。タイの食事は小振りなのでそれが出来る。

「ドカ食いは太る、何度も食べるのは太らない」とよく言われる。典型的なのが太ることが目的の力士の食事だ。朝抜き、昼抜きで、夜大量に食べる。吐くまで食べる。これが太るにはいちばんいいらしい。逆に言えば痩せたいならそれをしてはならない。タイ人は、少量をよく食べる。一日に何度も食べる。みんな細身でスタイルがいいのはその生活方式故なのだろう。



 日本のお祭のような場で「タイ風ラーメン」という幟を何度か見かけた。興味をもってちかよった。みなクイッテオだった。それが一般的だからそれでいいのだが、でもクイッテオにそういう名をつけるなら、やはりそれは「タイ風うどん」だろう。タイ風ラーメンはバーミーだと私は思う。



 さて肝腎要の話。あまり書きたくないが。
「なにゆえそんなにもバーミーを出す店が増えたか!?」
 そりゃシナ人観光客が増えたからでしょう。残念ながらこれまた絶対的事実。需用と供給。

 その市場でも、右も左もシナ人ばっかりでうんざりした。で、どうしたかというと「サイプラスチック」である。タイのこれらはみなテイクアウトできる。ビニール袋に挿れてくれる。しかし食器がない。スーパーで蓋附きのプラ容器を買った。次からはそれを持参して、それに挿れてもらった。ビニール袋に挿れてもらって持ち帰り、そこから容器に移すなら、最初から容器持参のほうが手っとり早い。。市場で周囲をシナ人に囲まれて喰うよりもずっと美味かった。
●ヘルメット常時着用

 今回町を走っていてバイク乗りの9割方がヘルメットを着用していた。ずいぶんと着けるようになった。これはもう20年ぐらい前から勧められていることで、それでもそれは不快なことだから快適主義のタイ人は着けない。逆にまたそれを待ちぶせするおまわりの小遣い稼ぎになっていた。

 今回もそれは変らず、いかにもそれらしき「この辺にいるんじゃないか」と思う場に見事に潜んでいて(笑)、ノーヘルの連中が捕まっていた。このことのわずらわしさは何度か「チェンマイ日記」に書いている。国際免許を掲示しても理解できないとか、タイ語はわからないと英語で話していたら無罪放免してくれたとか。

 この時期のチェンマイはかなり蒸し暑く、ヘルメット常時着用は愉しいものではない。さらには際立ってクルマが増えたので、排気ガスも半端ではない。町中を流すことはすでに愉しいものではなくなっていた。



●バイクの昼間点灯

 日本で法制化されたのは何年からだろう、今回チェンマイもそうなっていた。エンジンを掛けると点灯するように改造されいた。これがいかに事故を防ぐかは身を以て知っている。いいことだ。

 バイク事故のほとんどはそれを認識していないクルマに捲き込まれるもので、クルマに認識させることに高い効果のある常時点灯はよいことである。

 このあとに渡った雲南では、バイクの常時点灯はまだ法制化されていなかった。いやもしかしたら大都市ではもうそうなのかもしれないが、この地ではまだだった。これの効果を知っている私はいつものように常時点灯した。私が誤って点灯していると勘違いした妻子に、しきりに指摘された。詳しく説明したのだが、まだ納得していないようだ。

 あいかわらずこの辺はインド人理論(おれは見える、気にするな)で、薄暮になっても点灯するのがすくない。何度もヒヤッとした。羊腸している山道で、いきなり黒い物体が飛びだしてくるのだから怖い。こちらは点灯しているのであちらはバイクが来るとわかっているが、こちらはあちらを認識出来ないのである。たしかにあちらは視力5ぐらいはあるだろうし、夜目も利くだろうが、こちらに自分を認識させることが大事なのである。この辺、いくら言っても通じない世界だ。でもあと数年後にはこのへんも常時点灯になるだろう。



●レンタルバイクの値段

 25年前、ホンダドリームタイプの110ccは一日100バーツ、オフロードタイプの150ccが150バーツだった。すぐに150バーツと200バーツになり、10年前は、ドリームタイプで200バーツ、オフロードタイプで300バーツだった。ただしこれは一見の旅行者用値段で、私は月極めで一日100バーツで借りていた。

 今回、町中のドリームタイプのレンタル値段は、みな10年前と変らず「一日200バーツ」だった。諸物価、たとえばバーミーナーム(ラーメン)やソムタムが20バーツから30バーツ、人通りの多い場の店では40バーツと、1.5倍から2倍になっているのと比すと、そのままである。こういうものの値段は、物価のスライドとともに値上げできるものでもないのだろう。

 私の場合、25年前からのつきあいのスッターの店で、最初の一週間は150バーツ、次の一週間はこちらからはなにも言わないのに120バーツにしてくれた。



●ハイオクは高性能?

 クルマでもバイクでもレギュラーを使っているのでハイオクタンガソリンの経験がない。チェンマイでのレンタルバイクでは以前からハイオクである。ここのところずっとバイクは雲南だった。シナ製のホンダドリームタイプである。ガソリンは、そちらで詳しく書いているが、ペットボトルに入ったのを山奥の雑貨屋で買って挿れたりしているので、お世辞にも良質のものとは言えないだろう。

 事実なのか気のせいなのか、ハイオクタンで走るチェンマイのバイクは、加速がよく、雲南のそれよりずっと調子がいいように感じた。本物のホンダドリーム(とはいえ現地生産だが)とニセモノの差なのか、そのへんはわからない。いまこれは雲南でバイクを乗って来て書いているが、ハイオクが関係しているのかどうかは判らないが、やはりチェンマイのホンダドリームのほうが、雲南のニセモノよりは加速がいい。これは事実のようだ。
 






●チェンマイ引きこもり生活

 日本でほぼ引きこもり生活をしている。一応社会と関係を持った仕事もしているから、それを完全に断ってしまうことを表する〝引きこもり〟とは不適切な言いかたではあろうが、まあそれにちかい。元々の人嫌いがここのところ加速している。でもまさかチェンマイでもそれをするとは思いもしなかった。それが出来る環境になっていたことも関係はある……。



 『サクラ』でみんなと会話しつつ飲食するのも好きだったが、当時からひとりの食事も好きだった。町中の観光客相手のステーキハウスで、さんざめく白人に囲まれて、あるいはバイクですこし走る町中から離れたタイ人向けの食堂で、昼間からおだをあげるタイ人おっちゃんの中で、出たばかりの衛星版讀賣新聞を片手に、ゆっくりと食事をする。ビアチャン大瓶を2本。隅から隅まで読む。あれほど讀賣新聞を熱心に読んだ記憶はない(笑)。

 今回、讀賣は75バーツになっていた。10年前は60バーツ。運よく宿のWifiが繋がり、情報を得るために紙の新聞はもう必要なくなっていたが、そこはそれ。獨特の味わいがある。早速購入した。



 今回も讀賣片手にその予定だったのだが10年前とは事情が変っていた。どこに行ってもシナ人がいる。シナ人だらけ。でっぷり太ったシナ人、不細工な若い女のシナ人、叫きたてるあの支那語が聞こえてくる。うんざり。








     
     
     
     



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