下の写真のような街中の靴屋だった。まだ新しく、なかなか立派な店構えである。



 店内はこんな感じになる。日本的に言ってもごく普通の靴や、ごく普通の店員なわけだけれど。



 そこで靴を買うわけだが。
 手にした靴を履いてみようとしたら、店員が下の写真にある靴箱のフタを蹴って寄越したのである。「ほれ、これの上で履きな」って感じでだ。二メートルぐらい離れているところからだったから、「カサーッ」って音を立て床の上をすべって来た。一回じゃこちらの足元までは来ない。石ころでも蹴るように、三回ぐらい蹴ったのか。 

 なんちゅうことをするんだとあきれてしまい、抗議すら出来ずにいると、こんどはその横にあるプラスチックの椅子も蹴って寄越したのである。
「ほれ、これにすわりな」という感じでだ。これは「カンコロン」と転がりつつ、やはり三回ぐらい蹴られてこちらの足元まで来た。あきれた。ほんとにあきれた。

 場所は景洪。店は写真にあるように、こういう田舎町ではそれなりにしゃれた構えである。おいてある品物も、ちょいと高級目であったろう。無礼をはたらく店員は上の写真にあるように、グレーのスラックスに黒のジャケット姿であり、これもかなり気取った部類に入る。なのにこのありさまである。



 私はあまりに失礼なその態度に憤慨し店を出ようとした。「人をばかにするにもほどがある!」ってやつだ。怒るにもその限度を通り越していて怒れなかった。

 しかしそこで気づいた。ヤツはフツーの顔をしていたのである。むしろ無愛想ながらヤツなりに精一杯のお世辞笑いをしていたかもしれない。
 客に対して「ほれ、この紙の上で靴を履きな」「これにすわりな」と、それらを蹴って寄越したのは、彼にとってサーヴィスなのだ。こちらが感謝こそすれ不愉快になっているなどとは露ほども思っていないのである。
 もしも私が昂奮し、「なんだ、客に対してキサマのその態度は!」と怒鳴ったなら、どうなったろう。基本的に好奇心が強く事件に飢えている人々であるから、あっという間に大勢の人が集まって来たろう。まして昂奮しコメカミに青筋を立てているのが日本人であると知ったなら、おおいに盛り上がったに違いない。どこにでも仕切屋はいる。誰か仲裁に入ってきたヤツが私の言い分を聞く。だがやつらには「なぜこの日本人は怒っているのか!?」というのは永遠に謎だったろう。だってそういう国なんだから……。

 なんともあきれた国だ。これがヤツらのマナーなのである。こういうのを国柄というのか。これがお隣か。ここの国で発明された文字を私たちは使ってきたのだ。私たちの年号は、未だにこの国の古書から取っているのだ。なさけない。なんとも惨めな気分になる。儒教だって? 孔子だって? わらっちゃうね。こういうことに関して、師はなんてのたもうの。私は旅嫌いではあるが、それでも三十カ国ぐらいは訪れているだろう。今までどこの国でもこんな不愉快な目にあったことはない。

 二十一世紀における日本の最大の問題は中国とのつきあいかたである。これは間違いない。国的な外交レヴェルはともかく、一庶民として私たちがまず理解せねばならないことは、漢字を使っていること、お隣の国、見た目が似ているとかの、かってに抱いている親近感を捨てることだ。日本人のマナー感覚は、イギリス人やフランス人とのほうがよほど通じる。中国は遠い。しみじみと思い知る。
 こういう行為が日常的なのが中国という国である。それはもうそこいら中にあふれている。



 たとえばホテルで、フロントが客の前に鍵をポーンと放り投げてきたりする。カウンターの上に鍵がガチャンと落ちる。時にはスーッと滑って先のほうまでいってしまったりする。フロント係と客の私の距離は一メートルほどしかない。投げる必要はないのだ。それが日常なのだろう。しっかり手渡し、にっこりと微笑んで、ごゆっくりどうぞなんて感覚はここの人間にはない。

 しかし、ここが大事なのだが、やるほうが平然とそれをやるのは当然としても、やられた中国人客も、平気なわけである。やるほうも平気、やられるほうも平気、これがこの国の連中の感覚なのだ。つまり常識なのである。

 となると、彼我の差ということから考えねばならない。この国で心を波立てずに過ごすためには、こういう奴らのマナーに慣れねばならないのだ。
 現在、高級ホテルではこんなことはない。そしてやがて、その「マナー」は、私の泊まっているようなランクのホテルまで普及してくるかも知れない。だが、ここが問題だ。彼彼女らは、そういうマナーを守るようになるだろうが、それは「自分たちに金を払うこいつらは、こういうことを好むらしい」という商取引のために妥協し演技するだけなのである。心から素直に出た行為ではないのだ。日本人の礼儀作法とは根本的にズレている。
 遠いよ、中国は。アメリカよりもフランスよりも遙か遠くだ。




。こんなのでっかい×に決まっている。文化の差以前の問題だろう。他人の気持ちというのを考えたら、まずできない行為のはずだ。おそろしいのは、こういう国にいたら必ず自分もこうなるということである。そしてすぐに神経は鈍磨する。「彼ら個人に罪はない」そう言うのもたやすい。だがしかし、その溝は埋められるものなのか。
 (02/1/31)

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