雲南の移動はバスである。
  こういうマイクロバスに乗り、山間の道をを行く。これもねえ、見た目はけっこう良さそうだけど、ひどいもんですよ、ほんと、乗ってみると。
 ワタシもこんなバスに乗り、中国の山あいを行く自分を想像し、いいなあと思ったりしたこともあったんですけどね、ま、なにごともあこがれているうちが花ですわ。今じゃもうこのバスに乗らねばならないと考えただけで、前日から、いやもう数日前からうんざりしています。


 乗務員は運転手と助手。助手が乗客のキップを点検したりする。長い距離になると交代で運転するため運転手は二人になる。この場合は男二人。
 近距離の場合は、明らかに運転手の愛人と思われる女(女房じゃなくてね)が助手を務めていたりする。

 マイクロバスの運転手というのは、彼らが財布を出したりする現場を見ていると、一般庶民よりもかなり稼ぎのいい部類の人たちのようだ。日本円的にいうなら、一般庶民の財布の中がいつも一万円前後とするなら、彼らはいつも三十万円ぐらいはもっている。だからこそ愛人を車掌に出来たりするのだろうが。
 椅子の数は20前後。乗客数厳守となっているが、あまり守られてはいない。ぼくの見る限りでは、常に二三人オーバーだ。でもそのほうが情があるとも言える。


すでに満員になっていても途中で客が手を挙げれば停まって乗せようとする。他に書いたが、乗せれば乗せるだけもうかるという「バス持ち込み、個人営業」のようなものだからだ。とはいえ客の方も高い金を払って床にすわるのはイヤだから、バスが停まっても車内の状況を見渡してパスすることもある。急いでいるのか、どうしようもない満員状況の中に無理矢理乗り込んでくる人もいる。

 この場合、問題なのは空きスペースである。これらのバスは荷物運搬も兼ねている。パンパンに穀物の詰まったカマス三袋を積み込んで、自分は乗らず輸送費だけを払うなんて人も多い。どこそこで降ろしてくれと運転手に頼んでいる。実際現場で運転手は降ろすし、ちゃんと引き取り人も停車場に来ている。よくできているものだ。
 よってバスは、席と席の間の通路から、乗降口に到るまでびっしりと荷物が詰め込まれ、身動きできない状態になる。

 ちょっとでも目を離したら、私の大切な旅行バッグの上にこれらのカマス三袋が積まれたりする。その辺は無神経でまったく気にしない。中身がペシャンコにされるから、常に目を配り自分の荷物がそれらに潰されれないよう気を遣わねばならない。こういう場合、されてしまったヤツはそいつが油断していたからとなる。悪いのはそいつだ。リクツは通じない。私の場合、パソコン類は常に膝の上に抱いて死守している。もうひとつのバッグには、衣類や本や食品等、比較的無難なものをいれるようにしているが、私にとって大事な化粧品(?)が入っている。これは壊れ物だ。潰されないよう、懸命に気を遣う。


ニワトリやヘビを荷物として乗り込んでくる人も多い。いや日常だ。隣にニワトリを持ってこられるとわずらわしいので(毒蛇だったらもっとイヤだが)、内気な私もそれなりに自己主張をしなければならない。それが苦手だから私には辛い旅なのである。逆に勉強になるとも言える。日本における実人生で煩わしいことから逃げてばかりいる私でも自分の大切な荷物の上に50キロはある穀物袋を乗せられたり、肩をニワトリに突っつかれたり膝の上に毒蛇を置かれたりすると、さすがにやめてくれと言うのである。いや叫ぶのである。いや怒鳴り散らすのである。というようなことから考えると、日本の登校拒否やひきこもり、そういうことに対する解決法が見えてくる。かくいう私も学校に行くのが嫌いで出席日数が足りなくなり高校を卒業するときギリギリだったので、このへんのことは強気で言える。あんなのは甘えである。雲南のバスにしばらく乗せてやればすぐに治る。要はそういう解決法を自分でもっているかどうかである。自分で持っていればもともとそうはならないか。周囲が与えてやれるかどうかだ。

 どんなに気を遣っても、バッグが乾期なら埃まみれ、雨期なら泥まみれになるのは避けられない。だから安物の中国製バッグを使い捨て感覚で使うようにしている。私は長年愛用している黒革バッグを、一回り大きい中国製ナイロンバッグの中に入れるようにする。使い捨てなどということはしたくないのだが、まあ、使い捨てもなにも、買ったときからファスナーが壊れているような安かろう悪かろうの製品だから、捨てるのにこちらの心も財布も痛まない。


こんな感じのごく普通の町中を抜けて、やがてバスは山間部に入る。ここから本格的な羊腸した道と断崖絶壁が始まるわけだ。
 雲南の道路で、町中にすこししかないアスファルトの道路を走っていると、日本では普通のそれが、いかにすぐれたものであるかを痛感する。ヨーロッパでたまにあうコンクリート舗装の道などを走ると、細かな振動が絶えず、アスファルト舗装というものはすばらしいのだとあらためて思う。
 ついでながら、自動車というのは悪路になればなるほどそのクルマの造りの差が出る。実用主義者の私は日本の田舎で自分の用途にあった軽自動車を愛用しているわけだが、たまに悪路を走ると(田舎にも悪路はほとんどなくなりつつあるが)しみじみと造りの薄っぺらさを思い知って悲しくなる。振動が激しく雑音が大きく、音楽を聴くどころではなくなるのだ。こういうとき、安物と高級品の差が出る。もしも雲南に定住していたら、決して私は軽自動車を愛用しないだろう。可能な限り高級なクルマを買う。


山間の道路は「砕石舗装」である。砕石舗装とは、石を砕き、それを並べ、その隙間にコンクリートを流し込んで造るものだ。石がふんだんにある地域だから、材料的費用的にいちばん適しているのだろう。スリップもしにくいのかもしれない。
 ただしこれ、アスファルト舗装と比べたら乗り心地は最悪である。振動がひどいのだ。それにこの写真は平野部の最高にいい部分であり、山あいの羊腸悪路とはぜんぜん違っている。

 どういうところを走るかというと、今回航空写真を撮ったので、雰囲気だけ見て欲しい。以下のようなところである。道路は見えないが、この山と山の間を縫っているのである。



 この山間の段々畑を見ると、雲南省の少数民族がいかに耕作地に苦労しているかうかがい知れるだろう。元々中国という国は、広大ではあるが、山岳地や不毛の砂漠も多く、農民一人当たりの耕作面積は、世界でも下から数えたほうが早い。このことはまた別に書くとして。
 この山と山の間を縫うようにして走る道路を、おんぼろマイクロバスは、車体をふるわせ、タイヤをきしませ、前にトラックがいたらクラクションを鳴らしっぱなしで追い抜きにかかり、向こうからクルマが走ってきたら、チキンレースのように道を譲らず突っ込んでゆくわけである。肉体的にも精神的にもひじょーによろしくないバスである。




このバスに乗ったとき私は、「きょうは運がいいように」と願う。「前後の乗客に恵まれますように」と。
 車内はこんな感じ。山あいの道に入り、車体が右に左に揺れ、時折穴ぼこに突っ込んで飛び上がり、ぐわんぐわんと脳みそが揺れ始まるころ、前の席のおばちゃんが窓を開ける。ピョーっと飛び散る嘔吐物。ゲロでんな。
「うぐああああ、やっぱりきょうもこうだった」と思う。ついてない。せめて離れた席だったらよかったのに真ん前である。桟敷席、目の前だ。見たくもない吐瀉物が目の前を走ってゆく。さらには窓ガラスにくっついてネバってる。おばばよぉ、そんなにバスに酔うならバスになんか乗るなよと言いたくなる。こうなるともう定期的。ほぼ五分おきぐらいに窓から顔を出し、出る物がなくなってもゲーゲーと胃液を巻き散らかしている。





いま、おばちゃんが窓から顔を出し、ゲロを吐いている決定的瞬間です。
 まあこういうおばばのゲロシーンを写真に撮ったのも、すべてはホームページに載せようとしたから。でなきゃこんなもの撮らん!
 みなさまのために鮮明くっきりな大きな写真で、窓に張り附いた吐瀉物などもアップでお見せしようと思ったのですがね、ふっふっふ、きょうはこのへんにしといてやる。ってなにいばってんだ、おれ。

 一般にゲロを吐く人たちは、バスに乗り慣れていない山岳民族の人が多い。でもけっこうおしゃれした派手な服の漢民族のオネーサン(でも脇毛ボーボー)も突如としてビニール袋を撮りだし、ウゲーッウゲーッとやったりしている。まあ、汚いですわ、とにかく。
 それでなくてもうんざりするバスの旅が、あちこちでゲロ吐きが始まり、ましてそれが目の前の席で、ゲロの飛沫がかかるような状況だったら、これはもうひたすら目を背け、なんか違うことでも考えて気を紛らわせるしかありません。これから逃れるにはどうしたらいいのか未だにわからない……。





 というわけで。
 これは。判定不能。そうとしかいいようがない。

 そりゃあ目の前を飛行機雲のようなゲロが流れ飛び、窓ガラスに胃液が張りつくような状態にはでっかい×をつけたい。だけどそれはできんでしょ。だってこれは体質だもの。誰だって吐きたくて吐いているんじゃないもの。もしもこれにでっかい×を附けたら、ぼくはものすごく心の狭いイヤなヤツになってしまう。実際にイヤなヤツだったとしても、これには理性で×をつけることはできない。

 山岳民族のおばちゃんだって吐きたくなんかない。バスにだって乗りたくもないだろう。だけどそうせざるを得ない時代になってしまった。バスに乗って移動する時代になってしまったんだ。吐いてる人の苦しさを考えたらそれを責めたりは出来ない。

 それよりも感謝するのは、自分が乗り物酔いしない体質を親からもらったという感謝の心だ。そっちに目を向けたほうがいい。そしてぼくの彼女が酔わない体質だったという偶然に対する感謝だ。これ、酔わないほうがおかしいぐらいのとんでもないバスなのである。もしもぼくが酔う体質だったら山奥の彼女の家までたどり着けなかった。もしも彼女が酔う体質だったら、町まで出てきて「景洪クーラー事情」にあるようなホテルに一緒に泊まったりは出来なかった。あれほどひどいバスなのに、それに酔わない体質であることを感謝する。誇る。そう考えるべきだろう。
 責めないよ。ゲロを吐く人を責めはしないけど、こういうバスに乗りたくはない、とは言ってもいいんだよね? 乗りたくないです。ホ・ン・ト・ニ、こういうバスには乗りたくないです。





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