西双版納の中心地・景洪。右の写真は孔雀湖公園。市民が集う憩いの場だ。
 広場で太極拳をやる人たちがいる。なんだか調子っぱずれの三味線みたいなのを弾くおやじの後にくっついて、みんなで踊っている人たちがいる。按摩、占い師、靴磨き、記念写真屋、いろいろ揃っている。

 数年前、ひどい四十肩で苦しんでいるとき、ここの按摩には世話になった。毎晩揉んでもらった。そういえば「雲南按摩話」というのもかなり書くことがあるな。でも肝腎の写真があまりない。どうにも人の写真を撮るのが苦手なので、ぼくのは風景や小物ばかりになってしまう。
 これは、そんな景洪の街中で見かけた街路樹の話である。


左は街中の街路樹の写真。実はこの歩道工事をやっているときからこれを見ていて、ひどいことをするなあと憤慨していた。

 その「ひどさ」の中身を推測してみると、これは「無知」から来ているのではないだろうか。そう思える。


 たとえば中学生のぼくが、先生から「カラーのコンクリートブロックを並べて歩道をきれいに造ることになりました。前々からあった木は切らずにそのままにしておきます。さあやりなさい」と言われたとする。一般的知識のないぼくは、一所懸命に木のことを考え、歩道にきれいにブロックを敷き詰めることを考え、結果としてこういうことをするのではないかと思う。
 樹木の周囲に空き地を作ってやるということまでは考えが回らない。知識がない。樹木が生長するということも考慮できない。ただひたすら、今ある木を見つめ、きれいに、隙間なく、ぴっちりとブロックを敷き詰めることに専念する。そんな気がする。

 これはこのレヴェルの話だろう。実際工事現場ではプロ(?)ではなく、いかにも日雇い人夫という若い連中が作業していた。店の人たちも、「そんなに窮屈にしたら木が死んじゃうよ」と抗議するのかと思うと、別段そういうわけでもなく工事を見守っている。
 何事にも雑な中国人が、こんなことにだけ細かな作業を必死にしているのを見て奇妙に感じたものだった。ほんとにもう一所懸命にブロックを砕き、ほんのすこしの隙間も出来ないようにと熱心にやっていたのだ。仕事熱心とは言えるのだが、それが樹木のためには良くないことを知っているこちらからすると、なんとも不思議な光景だった。


ここだけに限らず、その他の街路樹も、同じ運命にある。
 ただし、最初から計画的に設計されたものは今度はまったく違っている。写真にあるパームツリーなどは町作りの設計図と共に植えられたものなのだろう、周囲にたっぷりとスペースが取られ、餘裕十分でうれしそうだ。

 冒頭の写真にある樹木は、町作りの計画前から商店の前にあり、街作り再開発でも、切るに忍びなく、生きることを許されたものなのだろう。
 わからないのは、その樹木の木陰は、新しいきれいな歩道が出来る前から、商店主やご近所の人たちの憩いの場であり、今も変わらずそうなのであるから、なぜもっと大切にしてやらないかということなのである。今でも毎日彼らは、その木陰にテーブルと椅子を起き、麻雀やトランプをやったりしている。もしかしたら町側が切ろうとしたのを、切らないでくれと彼らが頼んだのかもしれない。だったら、なぜもっと隙間を作ってやるような気遣いが出来なかったのだろう。不思議でならない。彼らにとっても愛しい木であると思うのだ。それらのことを考えてみると、やはりこれは「無知」という解釈が正しいのだと思う。

 ここで、この木の下で麻雀を楽しむ彼らの写真でもあると、より説得力が増すのだが、デジカメをもって歩いているだけで彼らはぼくを意識してしまうので、とてもぼくにはそんな写真は撮れない。今度、頼み込んで撮ってみようかな。


この写真は工事から一年後に見かけたもの。周囲に植物が生えてきているのが見える。まったくこの生命力には驚かされる。すごいやね。

「雲南でじかめ日記-もどかしい」に、「北海道のある道路は人間よりも熊が横切るほうが多い」という石原行革大臣の発言に抗議した鈴木宗男代議士の話を書いている。北海道の山奥を走っていると、ほんとにひとっこ一人いない広々とした道路がたくさんある。そこでクルマを停めて観察すると、アスファルトを突き破り草が生えてきているのである。強いよねえ。生命力は。

 クルマがバンバン走っているとさすがに植物も出てはこれない。でもクルマが走らない舗装道路だと、あっという間にアスファルトを押しのけて土の下から顔を出してくるのである。鈴木代議士は石原大臣に噛みつき、石原さんのほうがあやまったらしいけど、ああいう草の出た舗装道路を見せられたら何も言えなくなるだろうな。ぼくは現実に北海道でそれをなんども目撃している。

 この、びっしりと隙間なく敷き詰めたコンクリートブロックを押しのけて顔を出した植物により、中国にも、「これは木の周囲にすこし空き地を取ってやったほうがいいんじゃないのか」と気づく人がいることを切に願う。


というわけで。これは。判定不能。痛み分け。


なぜなら、このことを嗤える環境に日本はないからだ。ぼくがこういうことに興味を持ち、憤りを覚えるようになったそもそもが、田舎の新設道路でまったく同じ事が行われていたからだった。新しく作った道路の歩道に花水木を植える。その隙間が極めて小さい。世話もしない。だから半数ぐらいが枯れてしまっている。父と一緒に走りながら、行政の心配りの足りなさを嘆いたものだ。枯れた花水木が哀れだった。

 さらには二十年を経た桜並木。小さな隙間からはみ出そうな樹木。窮屈そうでかなしい。木は生長する。大きくなる。なんで道路設計の時にそのことを考えられないのだろう。当初は直径二センチ、長さ二メートルぐらいの木を植えるのだから、周囲の土の部分は三十センチ四方もあればいいと考える気持ちはわかる。だけどいつまでも木はそのままじゃない。成長したら拡げてやるならいいけど、そんなことはしない。だったら最初からもうすこし大きく取ってやりなよ、となる。こういうことから考えると、道路の設計者なんてのは、樹木を愛したりしたことなどないのだろう。植樹する木も、アスファルトで出来ていると思っているのだろう。

 「競馬雑記帳-ピンクの男子トイレ」でクロカワキショーセンセーの設計した中山競馬場がどうしようもないことを書いたが、基本的に設計者というのは、その辺の心に欠けているのだろう。そして、そういう「お国のやることレヴェル」で比べたら、中国のほうがむしろしっかりしていると気づいた。上記、パームツリーが将来まで考えた恵まれた環境下にあったように。
 ほんとはこれ「中郷口論」じゃなくて「日本口論」という題にして、日本に大きな×をつけるべきテーマなのかもしれない。

(02/2/11)



 これらの中国の植樹に関して、鈴木宗男あたりが絡んで、「中国緑化計画協力金」のような形で百億円が日本から出ていると知った。そうなんですか……。いやはやなんとも。(02/4/10)


 雲南でじかめ日記「もどかしい」



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