チェンライ。
 北村さん(假名)がびんぼうゆすりをしている。彼の推薦してくれるホテルに入り、一息ついた時だ。ベッドに腰掛け、話す北村さんのひざがカクカクと揺れている。
 最初それは偶然だと思った。昨日までチェンマイでずっと一緒だった藤山さん(假名)がやたらびんぼうゆすりをしていたのだ。イスに座って話すとき、ベッドに腰掛けて話すとき、ホテルの室内でもレストランでも、藤山さんはいつもカタカタと右膝を揺すっていた。

 私はそれが気になってならなかった。自分がしたこともなければ親しい友人にもいなかった。だからなのか、藤山さんと話しながら、私は揺れ続ける彼の膝をじっと見つめていた。

 そうして、まったく同じ事を今、チェンライのホテルで対峙している北村さんがしている。久しぶりの再会を喜び、かの有名なタイ在住の奇人変人のその後のことを聞き、今夜はどこに遊びに行こうかと話すあいだ、北村さんの膝はカタカタと揺れ続けていた。
 チェンマイの『サクラ』で知り合った、齢が近く、育った環境も似ていることから、特別に親しくなった二人の友人が、同じように膝を揺らしていることが不思議でならなかった。

 以前もそうだったろうか。考えてみる。チェンマイの『サクラ』で知り合ったときから藤山さんはびんぼうゆすりをしていたのか。藤山さんと一緒に出かけたメーホンソン。そこで知り合った北村さんも、あのころからいつもびんぼうゆすりをしていたのだろうか。当時もしていたのに、私が気づかなかっただけなのか。それともあのころはしていなかったのに、その間の心境の変化でするようになったのか。真相はわからない。とにかく、チェンマイで知り合った親しい二人が、たえず膝を揺すり続けるという奇妙な癖は気になった。それ以降、私は、びんぼうゆすりというものに敏感(?)になってしまったのだった。

 そうして周囲を見てみると、アジア関係の旅人にはやたらびんぼうゆすりをする人が多いことに気づいた。私の記憶違いではなく、どう考えても欧米で出会った旅行好きに、こんなにびんぼうゆすりをする人はいなかったはずである。私の中に「アジア好きの旅人=びんぼうゆすり」という図式が出来上がりつつあった。


 チェンマイ日記-「チェンライへ走る」



 びんぼうゆすりに関する概論(?)を語り始めてしまうと長くなる。結論を急ごう。ここは「中国口論」の場なのだ。いや、すこしだけ触れておかねばならない。私は中国に行くことによって私なりの「びんぼうゆすり理論」を覆させられてしまったのだから。
 簡単に言うと私のびんぼうゆすりに対する結論は「暇な人の癖」というものだった。

 アジア巡りを始めた私は、そこで今まで出会ったことのないタイプの人たちと知り合う。それは、やたら「暇」ということばを連発する連中だった。私にはそれがわからない。私には暇という感覚がなかった。かといっていつも忙しいわけではない。忙しがり屋なわけでもない。私が自分に関して思うことは、やるべきことが山ほどあるのに、それをせずにぐだぐだしている怠け者という視点である。

 けだるいチェンマイの午後に、『サクラ』でサパロット・パン(パイナップル・シェイク)などを飲みつつ、ぐでっとしている。気分がいい。そういうときの私の心はふたつにひとつだった。「きょうは仕事を仕上げたし、ああ、のんびり出来て気分がいいや」という場合と、「やんなきゃならないことが山ほどあるのに、まずいなあ、こんなことしてちゃ。でも楽しいもんなあ」というものである。いずれの場合も私にはやらねばならないことがあった。

 だからそこで出会う彼ら(それは決まって若者だった)がよく口にする「ああ、暇だなあ。なんかいい暇つぶしはないかなあ」という感覚が私にはわからなかった。今もわからない。これからもきっとわからない。わかりたくもない。
 このことはまたあらためて書いてみたいテーマになる。いやほんと、不思議でならない。何度か書いている「旅人気質の有無」と深く関わっていることだと思う。欧米で出会った若者から聞いたことがなく、タイで出会った若者に多いということも、「旅論」に関係してくるだろう。



 そういう、やたら「暇だなあ」と口にする私には理解しがたいバンコクやチェンマイで知り合った若者旅人が、よくびんぼうゆすりをしていたのである。

「暇だからさゆり(チェンマイの老舗ソープランド)にでも行って、二、三時間、ウォッチングでもしてくるか」なんて、私には信じがたいことを言っている連中が、テーブルの下で、いつもせわしげにカタカタと膝を揺らしていたのだ。私にはそれが「なにかおもしろいことはないか、どこかに夢中になれるなにかはないか」という催促の音のように聞こえた。

 蛇足ながらこの「ウォッチング」を説明すると、タイのソープランドは大きな硝子窓の向こうの雛壇に姫達がすわっている。何十人もがずらりと並んでいる様は壮観だ。そのソープランドの大きな待合室に行き、クーラーの涼しい風に当たりつつ、ビールかコーラでも飲みつつ、そこで暇をつぶすのだ。それも何番の娘がかわいいなんて初歩的なものではなく、何番の娘は三回連続で指名を受けた、何番の娘は中国人に三時間貸しきりだった、なんてやっているのだ。当然三時間貸しきりだったと判断できるにはそこに三時間いなければならないわけで、これはもう究極の暇潰しであろう。しかしそんなことを二十代の若者がやって何の意味があるのか。

 というわけで私は、びんぼうゆすりとは、暇をもてあました人間がやるものと決めていたらしいのである。自分の考えを「らしいのである」ってのもおかしいけど、今回中国で衝撃的(?)な現場に出くわすまで、私はこの十年ほどそう思いこんでいた。「神経質な人間がなにかに苛立ってするもの」という発想ももちろんあった。だが実際に私が出会うびんぼうゆすりをする人は、みな「暇だなあ人間」だったのある。



 ここに掲載した写真は、中国雲南省、西双版納空港でのものである。田舎空港の前にあるオープンレストランだ。

 ここにいたる前に私は中国が「びんぼうゆすりの本場」であると確認していた。これはもう間違いない。人間の絶対数が違うからいちがいには言えないが、タイではまず見かけないのに--そういえば私が見かけたタイでのびんぼうゆすりは日本人ばかりだった--中国に来たら、もうありとあるゆる場所にびんぼうゆすりがあふれていた。それはもう「さすが本場!」と唸るほどだった。


 と書いていて思い出した。この旅の時、昆明空港での出来事である。
 待合室のプラスチックイスにすわっていた私の隣に誰かがすわった。見ると若い女性である。見たのはスケベ心からではない。中国人というのは無礼なので、先人に迷惑をかけないよう、そっとすわるなんてことはしない。まして「失礼」なんて言ったりはしない。まあ最近の日本もだいぶひどくなってきたが。こういうことに関しては、ヨーロッパは礼儀正しくていいなといつも思う。中国はなあ、ほんと……。
 こちらの腰が浮くほどドスンというすわりかたをするのだ。そのたびに私はいったいどんなヤツだ、まったく中国人てのは、とうんざりした感じで隣を見る。たまたまそれが若い娘だったというだけだ。





 ここでスケベ心に関して書いておくと、私のそれは中国ではずっと眠ったままである。なぜなら、中国人女性には、こちらの望むような恥じらいや立ち居振る舞いがないからだ。ここで大切なのは、日本人である私の、「こちらの望むような」という点である。たぶん彼女たちなりの羞恥や「おしとやか」はあるのだと思う。ないはずがない。日本とは違っているだけだ。でも「スケベ」に関していちばん重要なのはそういうお国柄である。

 たとえば「風が吹いてスカートがめくれ下着がチラっと見えた」という状況の場合、そのことにうろたえ恥ずかしがってスカートを手で押さえる女の姿にこちらのスケベ心は刺激されるわけである。そういうことに中国女はうろたえない。初めて訪れたころ、ミニスカートで自転車に乗り下着が見えそうな女性が多いことに私はたじろいだのだが(相好を崩したでも鼻の下を伸ばしたでもいい)、すぐに向こうが恥ずかしがっていないからこちらもいやらしい気持ちの持ちようがないと気づいた。そうなってしまうと、元々立ち居振る舞いが男っぽく、道ばたに痰を吐いたり、人前で手鼻をかんだりする中国人女性の股の間から、黒、赤、白等の色がチラリと見えても、それは単なる布地の色であり、スケベ心とか煽情とはまったく無関係なのだと気づいた。ということで、スケベとはなんなのだろうと仙人のような気分で考えることが多い。中国では。
 話、もどって。



 その、どすんという感じで私の隣にすわった娘が、すわるやいなやびんぼうゆすりを始めたのである。それも両足だ。悪霊でも憑いているんじゃないかと思うほど、いやはやなんともひどいものだった。私は見ないよう目を背けて違うことを考えようとしたが、振動が伝わってくるので、そうもいかない。我慢ならず席を移った。
 ここまではよかったのである。人それぞれだ。文句は言えない。どこにでもよくある話だ。私は貧乏ゆすりが大嫌いだけれど、他人がそれをすることは否定できない。日本でも、けたたましい白痴ニワトリのような女子高生が電車に乗りこんでくると車輌を替わる。混んでいて替われなかったり、下校時でどの車輌もそんなのばかりだったら電車を降りる。ヤツらがいなくなるのを待つ。寒風吹きすさぶ田舎駅で一時間震え上がることになろうとそうする。そうして生きている。せねばならない。バカは伝染する。危険だ。それが私の心の平温を保つ方法である。
 これは方法論だ。だから席を譲り、びんぼうゆすりから逃げた私はそれはそれでいいし、残った女は思いっきりゆすればいいというのが私のリクツになる。

 搭乗時間になる。私は待合室を出て早めに乗り込む。「ああ、やだやだ。びんぼうゆすりばかりでうんざりする」と思いつつ。
 自分の席にすわり、向こうからその女が歩いてくるのが見えたとき、いやな予感がした。「まさか、まさか、まさか」。馬券は当たらないがこんな勘は当たる。私の隣席だった。こんなことってあり得るのだろうか。ちいさい飛行機とはいえ百人は乗っているだろう。なんでその貧乏ゆすり女がよりによって私の隣席になるのだ。あ~あ、またびんぼうゆすりかよ! その女は私の内側の席にすわり、すわるやいなやまたも両足をカクカクと小刻みに震わせ始めたのだった。たまらん。でも逃げ場がない。電車と違って飛行機は車輌が替われない。車輌どころか席すら替われない。しかも中国国内線のせまい座席だ。それはほんの小一時間のフライトだったが、私は通路側に目を向け、小刻みに伝わってくるびんぼうゆすりから、ひたすら気を逸らすことに専念したのだった。ああ、やだやだ、書いているだけであのときのことを思い出す。

 この女と出会うことにより、あらためて「中国人てのはよくびんぼうゆすりをしているなあ」と思った。そう思った瞬間から、私は「びんぼうゆすりウォッチャーモード」に入ってしまったのだった。そう意識してみると、まさに中国は本場、右も左もびんぼうゆすりだらけだった。その証拠の一端がここにあげた三枚の写真なのである。



 西双版納空港での写真の説明にもどる。
 中国にいる間、外出したなら、びんぼうゆすりとは無縁ではいられなかった。市場でも食堂でも、公園の麻雀卓でも、人が数人以上集まっている場では、常にカクカクと膝を揺らしている人がいた。見なきゃいいのに、妙にびんぼうゆすりに敏感になってしまった私は、それが目についてならない。
 そうして思ったのは、それまでの私の理論(?)と相対するのだが、膝を揺らしているのが、けっして暇人ではないということだった。むしろ、目端が利きちょいとした小金をもっているような男女ばかりだったのだ。

 「びんぼうゆすりをする人は暇人」という私の理論(?)は破綻した。このことについては、また書くこともあるだろうから、とりあえずこの場の結論を急ぐ。
 場は西双版納空港前の食堂である。空港敷地内の食堂がまずくて高いのは世界共通だ。ここも町中と比べたら三倍の値段を取り、見事なほど不味かった。私は毎度書いていることだが、「最愛の彼女と別れるさみしさよりも、中国という国から出られる喜びのほうが強い」という心境の中にいた。

 それ以前に私は彼女に、「あれはびんぼうゆすりと言って、日本では悪い癖なんだよ」と教えていた。彼女や彼女の家族にそれをやる人がいなかったのは救いだった。これは漢民族の癖であるようにも思う。雲南省は少数民族の宝庫と呼ばれ、何々族自治区というのがあちこちにあるが、ポイントとなる役人などはみな漢民族である。当然、少数民族側は漢民族をこころよく思っていない。強者と弱者、金持ちと貧乏人だから当然だろう。発展途上の地で、金持ちぶり携帯電話片手に大声で話しているようなのもみな漢民族である。びんぼうゆすりをしている連中もまた、そういう小金持ちの連中なのだった。
 私からびんぼうゆすりの話を聞いた彼女は、バスの中や食堂でそれを見つけると、「あそこにいるよ」と、べつに教えてくれなくてもいいのに(笑)、律儀に毎回教えてくれるのだった。



 このときも、「そこにいるよ」と彼女が隣の席を目で示した。そこでは男がカタカタと膝をゆらしつつ雑談していた。
 写真を見ればわかるように、これから飛行機に乗って大都市に向かうのであるから、それなりに経済的基盤のある人たちである。平均月収が千元程度なのに航空券は近場でも五百元はするのだ。

 彼女に言われて前を見ると、そこでも男が膝をカクカクと揺らしている。私は彼女に「そこもそうだよ」と言う。すると彼女が「あ、あっちもそうだ」と言う。ということで気づくと、これ、状況を想像してほしい、そうとうにすごいことになる。十卓ほどのテーブルの内、八卓ぐらいがびんぼうゆすりをしていたのである。私は弾かれたように立ち上がるとデジカメを取りだし、彼らの姿を撮った。撮ってみたところで写真からそれは伝わらないし、「びんぼうゆすりをしている中国人」なんてのはメディアのむだ使いでしかない。が、そうでもしなければ、自分を囲んでいる四方の人間全員がびんぼうゆすりをしているという気持ち悪い状況に私は耐えられなかった。

 さすがは中国である。13億の国民に、びんぼうゆすりの癖のある人間は何億人ぐらいいるのだろう。彼らが一斉にびんぼうゆすりを始めたら、地球が揺れそうだ。





これは×。自分はやらないし、やったこともないし、大嫌いなものだから思いっきりでっかい×にしたいが、友人の北村さんや藤山さんもやるし日本人にも多いから、中国人だけの悪い癖とも言えない。よってふつうの小さい×。タイ人にすくないのはすくいだ。
(02/1/4)


《附記》

 久しぶりにバンコク中央駅で切符を買い列車に乗った。コンピュータを操作して発券する予約センターの男がこまめにびんぼうゆすりをしていた。意識して気づいた「びんぼうゆすりをするタイ人」としては初めてになる。冷房の利いた部屋でスラックスにワイシャツ姿でコンピュータを操作しているのだから、タイの社会の中ではそれなりの地位に属するのだろう。とすなるなら、やはりこの癖はその名前から来る、ビンボーな暇人のものではないようだ。むしろそれなりの金を持ってはいるが現状に満足せずいらついている人のものとなるのか。それはともかくこのタイ人の癖には、タイが大好きなだけにがっかりした。
(02/1/19)




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